コンセプトは ”どうしたら面白くなるか?” 庭先の博物誌 画・文:平澤 功
おもしろがりホーム
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花咲く針葉樹 090331 はなさくしんようじゅ
090330 はくれん

090329 せきしょくやけい
090328 ねこやなぎ
090327 つくし
090326 なのはな
090324 くりすますろーず
090323 くすだま
090320 ずいこう
090319 たくぼく
090318 こうさ
090317 もうすぐ

090316 おうじがふぐり
090312 みもざではない
090311 はつね
090307 おとしもの
090306 きだちあろえ

090305 きんかん
090304 はだれ
090303 なたねづゆ
090301 たいひ

 健康のためとはいえ、寒くてまだ暗い朝早くから街中をほっつき歩いて、何が面白いと言う人もいるだろう。いや、実際何度も同じようなコースを歩いていると、飽きてしまって出る気になれない朝もある。
 この時季目に入る花とて、どれも変わり映えのないものばかり。そう愚痴ったところで、いつもの景色が変わるわけでもなし。少しでも気になることがあれば、カメラに収めるぐらいで気を紛らすしかない。そう自分に言い聞かせながら撮った黄色い花。シャッターを押してから「おや?」と疑問符が頭の上に現れた。
 花の形は明らかにキクである。言わずもがな、キクは秋の花。でも、木部がしっかり見えているから草ではない。しかも、葉はまるでモミやトウヒのような針葉樹だ。こんなキク見たことないぞ。
 この花の同定には苦労した。樹木の図鑑にも園芸種の図鑑にも、それらしいのが見当たらない。インターネットでキーワードを様々に変えて検索して、ようやくたどり着いたのが、ユリオプスという名前。あるいはゴールデンクラッカーとも呼ばれるらしい。それ以上は南アフリカ原産のキク科植物という程度しかわからない。
 ワシントン条約があるから、外来の品種がそんなに簡単に出回ることもないだろうが、このような未知の園芸種が庭先に姿を見せると大丈夫なのかと心配になってしまう。
 でもね。同じような街角を歩いていても、こんな風に新しい発見があるんだ。面白い。

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品質でもうけなさい…品質「補償」活動・「お祭り」品質管理に決別を!品質問題の本質と解決の考え方を豊富なイラストでやさしく解説します。 改善提案名人に挑戦!…生産改善のコツを楽しい物語で解説。
(2009/03/31)
備忘録めもらんだむ・・・常時工事中です。歯抜けでも差し支えなければどうぞご覧ください。 午後の絵本…オリジナルのイラストです。ヒマなときにどうぞ。
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白蓮
 今年の桜は例年より早いという話だったのに、このところ寒い日が続き、うちの近くの桜のトンネルもところどころ申し訳程度の開花が見られるだけだ。この時季、平日でも花見の人が絶えない人気スポットだが、まだまだ閑散としている。
 その桜通りから外れて、高速道路沿いの隘路に向かう小道。この辺り、かつては雑木林だったのが新しいマンションが立ち並んで、昔の面影は何もない。こんなところにモクレンがあった記憶もないから、新しく植えられたのだろう。
 モクレンはうちの庭にも紫が1本ある。どこの家でも大体そんなものである。しかし、こうして何本も立ち並んでいると、桜並木に負けず劣らず目を見張る。紫でなくて白いやつだから、いっそう青空に映えて爽やかな印象を与える。道路に散った白い花弁が茶色く汚れる様はあまりきれいとは言えないから、今がちょうど見頃かもしれない。
 ピンクや黄色の春の彩りとは趣が違う無彩色の世界はむしろ冬の装いだ。それがこんなに華やかに見えるのは、柔らかで優しげな花の形の成せる技か。

 白蓮の並木を透かす冷た風

(2009/03/30)
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赤色野鶏
 早朝の街中を散歩していて、突然目の前に鶏が飛び出したら、そりゃ驚くなと言う方がムリというもの。
 確かに先刻から鳴き声が聞こえていたのだが、他のことに気を取られていて全く気に留めていなかった。アスファルトの上を闊歩しながら悠然としたものである。あり得ないと思うものが堂々と現れると、一種のギャグみたいに感じてしまうのが可笑しい。
 常識を破るということ。その結果が偉大な業績であれば素晴らしい感動を生むのだが、逆に信じられないほどの失敗であったり、大勢に全く影響のないトンチンカンなことであったりすると、それはお笑いのネタになってしまう。
 例えば、この国で一番エライはずの人が中学生でも読める漢字を読めなかったり、世界中が注目する会見でヘベレケに酔っ払っていたら、やはり漫才やコントのネタになってしまう。笑われた側にすれば悲しいことではあるけれど、逆に、笑い飛ばすこともできないような恐ろしい社会になっては困る。
 例えば、最近は政治と金の問題が取り沙汰されて、社会保障や介護問題、あるいは経済危機の話すらかすんでしまい、国民はどこに怒りをぶつけて良いのかわからなくなってしまっている。そんなに怒りばかり煽っていると、いくら大人しくて我慢強い国民でも、暴動の引き金を引いてしまわないとも限らない。もし、裏で糸を引いている人たちがいるなら、そういうこともわかって、国民を不満と不安に駆り立てているのだろうか?
 そんなつまらないことをするくらいなら、いっそのこと、国会の中に鶏の大群を放したり、霞が関の中で馬と鹿の群れを追い回したりしたら、あまりのバカバカしさに国民みんな大笑い・・・なんてことになるわけないか。
 腹の底から笑うってことが最近ないよね。

(2009/03/29)
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猫柳
 見ていると、なんだか新種のウミウシのようだ。華やかさ競う春の花々の中で、なんともユニークな自己主張をするではないか。
 秋の野に猫じゃらしと呼ばれるエノコログサという草が生えている。エノコロは実は犬ころのことなんだけれども、毛羽だった穂を取って猫の前でチョロチョロと動かすと、どんなに無愛想な猫でも興味を示さないことはない。その形に似ているせいか、エノコロヤナギという別名がある。このネコヤナギも同じように動かせば、猫たちの好奇心を掻き立てずにいられないに違いない。
 密生した毛が猫を連想させるのでこの名があるとされているが、私には猫よりも、やっぱり不思議な未知の生き物という感じ。モウセンゴケみたいに、飛んできた虫をぐるぐる巻きにして食べちゃうんではないかと、そんな想像をして愉しんでいる。
 春は桜、菜の花、花連翹。春は花の彩り、それはその通りなのだけれど、猫も杓子も同じ感性で季節を見ていては言葉が続かなくなる。こんな愉しい花がちゃんと春を告げているのを見て、多様性の面白さを感じてしまう。
 生け花に利用されたり、歌に歌われたりしている。昔から本物の風雅の人はわかっている。俗人だらけの社会では差別の原因になったりもするが、違うということは素晴らしいことなんだ。

(2009/03/28)
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土筆
 去年の今頃びっしりとつくしが生えていた空き地が、アスファルトにしっかり固められた駐車場になっていてがっかりだった。
 山野草の図鑑を見れば、つくしは生命力旺盛でいくらでも生えてくるから、どんどん採取して春の味を楽しもうと記されてある。しかし、最近はそのつくし自体を見つけるのがとても難しくなった。
 気になるのは、スギナはよく見かけるのに、その胞子茎に当たるつくしを見ないことだ。普通、スギナはつくしが消えた後に出てくるのに、かなり早い時期からスギナだけ生えて終わりになってしまう。一体つくしはどこに消えてしまったのだ???フキノトウにしてもそうだが、身近な山野草を見つけるのが以前ほど容易ではなくなってきた。この辺り多少は畑が残っているものの、やはり都市化の波は抗いようがないのか。
 同じように舗装された駐車場。その端っこのアスファルトが剥げて、土が出ているためにスギナが生えている。その中に数本のつくしを見つけた。私有地なので金網を越えて採りに入るわけにもいかないが、久しぶりに姿を見た。
 ほろ苦さが少し残るくらいに煮たやつを、ご飯に乗せて食べると美味い。
 まず、節の部分に付いている袴を取り除いて軽くゆでる。すぐにしんなりとしてくるので、アクを取ってから2,3回水で洗ったものを、醤油と酒、ダシで味が適当にしみ込むまで煮れば良い。料理番組みたいな厳密なレシピなんかないよ。
 と、母が笑いながら話していた。

(2009/03/27)
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菜の花
 写真というのは省略の技術だと、何かの本で読んだことがある。素人ほど1枚の中に色々な被写体を入れたがり、上手な人は写したい対象だけに絞って撮影をする。それはわかっていても、慣れないとなかなか省略する勇気が持てないものだ。カメラを始めた当時の自分の写真を見ると、ほとんど何を写しているのかわからないものばかりである。
 省略のコツをつかんだのが、ある雑誌で見た菜の花の写真だった。それは、ちょうどこんな感じの、一面に広がる菜の花畑だった。が、広大な菜の花畑に見えただけで、実際は狭い一角に植えられた菜の花に過ぎないことが、次のページの写真でわかった。つまり、1枚の写真を見て、頭の中で勝手に広大な菜の花畑を想像していただけなのだ。
 写真というものを単なる記録として考えるならそれだけの話だが、撮り方によって同じ被写体が全く異なるメッセージを伝えてくる面白さ。そして、そのメッセージの発信元は、実は自分自身なのだという意外な発見。
 だから、写真の中には余計な情報を取り込まない方が良い。見る人のご想像にお任せするような、不親切な作品の方が生きている。見る人が100人いれば100種類のそれぞれ異なる世界が写っている。だから、撮影した側も、見る人の表情を見るのが楽しい。きっと、実際とは違うユニークな世界が頭の中に広がっているはずだからだ。
 というわけで、この菜の花畑も街角の狭い三角地に植えられていたところを、そこだけ切り取って撮影したもの。すぐ横には大きな看板やコンビニが並び、道路にもトラックがビュンビュン走っている場所なのである。
 春は黄色が似合う。

(2009/03/26)
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クリスマスローズ
 年末の本当のクリスマスのときは、まだまだ蕾みも目立たなかったのに、クリスマスローズが目一杯の自己主張だ。濃いピンクの株も頑張っているが、白い株が朝の光に照らされてまぶしい。
 例えば、キクの仲間なら高貴、バラの仲間なら優雅、ユリは清楚、ランは絢爛、花の美しさを言葉にたとえて形容する。クリスマスローズも貴婦人と言われたり、慰めとか癒し、いたわりなどという花言葉が見られる。
 実を言うと、私にはクリスマスローズが貴婦人とも思えないし、慰め、癒しなどというのもどうも不似合いに感じられて仕方がない。そういう言葉が先に立つと、その印象が先入観となって、本当にこの花を愉しもうとしているのか、ただ言葉の響きに浸っているだけなのかわからなくなる。それがいやなのだ。
 クリスマスローズ。どこかお茶目な嬢さんというのが私の印象。活動的な5弁の花の形から、そうではないかなと思ってはいたが、図鑑を調べたらやはりキンポウゲの仲間。キンポウゲは高山でお花畑の群落をよく見かける黄色い花。この仲間はバリエーションが豊富で、しかも色鮮やかで個性的な花を付けるのが特徴だ。園芸品種もかなり多く作られている。
 ところが、キンポウゲの仲間はどんなに美しくても、純情可憐とか清楚といった形容が当たらない。危なっかしさを内に秘めた小悪魔のような妖しい魅力という感じなのだ。代表的なのが、オダマキ、フクジュソウ、トリカブト、キンバイソウ等々、いずれもふと目を奪われる美しさがあるが、お察しのとおり毒がある。
 花が毒を持つことに罪はない。それは毒を利用する人間の問題。キンポウゲ科の悪戯っぽさがある美しさが好きだ。



(2009/03/24)
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薬玉
 遠くの高い木に大きなヤドリギが見える。気になって、その辺りまで来てみれば、古い小さな鎮守様。鎮守の杜の、ケヤキだろうかエノキだろうか、大きな木に大きなヤドリギが3つも付いている。
 代表的な寄生植物として、よく子供の図鑑や理科の教科書に写真が載っている。ヤドリギというと上品な響きだが、寄生植物というとなんだかエーリアンみたいな感じだ。好奇心が旺盛なカラスが実をつついて、くちばしについたネバネバを枝にこすりつけて種を残し、それが発芽してこのような姿になる。そんな説明がされていたのを思い出した。
 昨年の暮れだったか、テレビでもヤドリギを見た。出演者が実際にこの実を食べて、甘くて美味しいとコメントしていた。それなら、カラスだけでなく甘党のヒヨやメジロの餌にもなるだろう。消化しない種を含んだ糞が枝に付着してこのようになるというのが正しいらしい。
 ヤドリギは昔から縁起木として珍重されてきたと言うが、これだけ見事な球体ならそれも納得できる。こうやって真下から見上げていると、神社の境内にいることもあって、厳粛な雰囲気を感じてしまう。その一方で、くす玉のような真ん丸の球体を眺めていると、なんだか笑いがこみあげてくる。
 あのくす玉は、何か良いことがあるとパカッと開いて、そこから染之助・染太郎みたいなキンキラキンの神様が出てきて、オメデトーゴザイマス!なんて調子で出てきたら面白いな・・・なんて、くだらない想像を愉しんでいたら、首が痛くなってきた。帰ろっと。

(2009/03/23)
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瑞香
 梅の花が散っても、あちらこちらで沈丁花が春風に香る。開花が遅いうちの沈丁花も、ようやく独特の香りを漂わせ始めた。以前も書いたが、月が明るい夜に庭に出ると、光が香っているような錯覚に陥ってとても幻想的な気分になる。
 ところで、梅の香りはその実の印象から甘酸っぱさも思わせて、食欲をそそる気持ちの良さ。でも、沈丁花は味覚とは関係ないのに、どうして気持ちが良いのだろう。いや、沈丁花に限らず、水仙やフリージアやクチナシ、バラ、秋のモクセイ、みんなそうだ。味覚とは関係ない香りになぜ心地良さを感じるんだろう。香水や化粧品メーカーなら、その秘密を知っているのかな。
 昔聞いた深夜放送の話。こんな話だから多分永六輔さんだったと思う。
 つまり、三大欲望と言われる食欲・性欲・睡眠欲。ご馳走の匂いを嗅いで良い気持ちになるのは食欲が刺激されるから。同じように花を眺めてきれいだなと思ったり、花の匂いを嗅いで心地良くなるのは性欲が刺激されるからだという。だれだって異性の性器を目にすると変な気持ちになってしまう。花というのはめしべとおしべが露出した生殖器そのものだから、無意識に良い気持ちになってしまうんだ、という話。
 本当かどうか眉唾ものだが、青春ど真ん中のうぶな受験生には少々刺激的な説明で、しばらく花を見るだけで興奮・・・とまでは行かなくても、変な想像をしていた。
 さて、それでは最後の睡眠欲を刺激する香りってどんなものだろう。嗅いだ途端に睡魔に襲われるような・・・!これって、もしかして麻薬?それとも毒薬?こりゃやばいやばい。

(2009/03/20)
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啄木
 ウォルター=ランツという漫画家が描いたウッドペッカーの声は、ァ・ァ・ァ・アーァー♪ってな調子で、とてもこれがキツツキの鳴き方とは思えない。アメリカのキツツキは本当にこんな風に鳴くのだろうか。かもしれないなあ。なにしろ、日本のキツツキ(啄木)は三十一文字の歌を歌ったのだから。
 小学校の横の坂を上りきって一息ついたときだ。木製ドアを開け閉めするときに鳴るギーッという音が聞こえて、すぐにキツツキがいると気付いた。道路と校舎を隔てる落葉樹を注意深く調べると、ちょこまか動き回ってドラミング(木を突く動作)を繰り返す小さな奴を見つけた。正しい名前はコゲラ。背中が白いまだら模様になっているのが特徴だが、動きを見ればすぐそれだとわかる。
 昔からいわゆるキツツキとして親しまれていて、それほど珍しい野鳥ではない。同じキツツキでもアカゲラなどは山の中に入らないとなかなか目にするのは難しいが、コゲラは街中でもよく見かける。スズメ、メジロ、シジュウカラが群れていると、たまにこいつが混じっていることがあるのだ。しかも、よほど素早さに自信があるのか、かなりの距離まで近づいても逃げることがない。その代わり簡単にはカメラに収めさせてくれないけれど。
 このコゲラはつがいのようで、離れた木から同じようにギーッという声が聞こえた。子育てのために餌を求めて飛び回っているのだろう。いつまで眺めても飽きないけれど、一枚撮影できたところで先を急ぐことにした。

(2009/03/19)
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黄沙
 天気予報で黄沙に注意と聞いたせいもあろうが、そんな先入観もあって、どうも空がいつもより黄色っぽく霞んでいるように見える。
 黄沙現象とは、中国の黄土地域やもっと東のゴビ沙漠、タクラマカン沙漠の細かい土の粒が、強風で上空に舞い上がり、浮遊しつつ落下する現象を言う。比較的大きな粒は周辺に落下するが、ミクロン単位の細かい粒はそのまま上空の風に乗って遠くまで運ばれる。カナダやグリーンランドまで到達した記録もあるという。
 この時季、強風、乾燥、花粉に黄沙を加えて春の4Kと呼ぶのだそうで、呼吸器の弱い人やアレルギーのある人にとっては辛くて迷惑な日に違いない。ところが、黄沙に関しては、降塵現象としての問題以上に、発生地域で深刻な大気環境問題となっていると聞く。すなわち、黄沙の原因となるダストストームと呼ばれる砂塵嵐が原因で、実際に人や家畜に被害が出ている。
 仕事で群馬県の太田市に行ったとき、たまたま砂塵現象に出会ったことがある。本場のダストストームに比べれば子供だましみたいなものだろうが、それでも全く目を開けていられず、ホテルでシャワーを浴びた時に頭髪が砂粒まみれだったのには驚いた。
 黄沙については、そのときの条件によって温暖化の要因になったり冷却要因になったりするという。また、絹雲ができる際の核になったり、海水のミネラル源になったりもするらしい。地球規模の大きな影響があるのかと思うと、目が痛い、息ができないなんてブツブツ文句を言うのは人間どもの勝手な理屈なんだろう。
 でも、辛い人にとっては我慢できないのだろうね。こんな日は屋内にいるしかないか。

(2009/03/18)
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もうすぐ
 桜前線という。天気予報で、九州はもう開花し始めたと言っていた。関東でも例年より一週間近く早まりそうだとのこと。
 しかし、桜前線の桜はソメイヨシノのこと。巷ではオオシマザクラ、ヤマザクラ、カスミザクラなどなど、様々な種類の桜がすでに花開いている。なんで、ソメイヨシノだけ特別扱いなのかといぶかしくも感じるが、これが満開になって花弁が散り始める候の狂気の沙汰は、日本人にとって待ちきれない季節の風物なのだ。
 ソメイヨシノは染井吉野。江戸末期に江戸の染井村(今の駒込辺り)の植木職人によって、オオシマザクラとエドヒガンとの交配で作られた雑種である。一本のソメイヨシノを接ぎ木によって増やしたもので、つまり、すべてのソメイヨシノはみんな同じDNAであるということだ。この異常さが人の気を変にさせるといったら考えすぎだろうか。 面白いのは、同じDNAなのに、一株一株花の色や付き方が微妙に違う。この世のすべての物事にバラツキがあるんだなあと、桜とは全く別の事に感心している変な自分がいる。
 一本のソメイヨシノの脇を通る時、ふと梢を見上げたら、今にもはち切れんばかりの蕾が一杯。もうすぐだ。ほとんどの日本人がおかしくなっちゃうのは。

(2009/03/17)
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おうじがふぐり
 梅の花も落ちて、朝の空気もかなり暖かく春めいてきた。小さな梅林の脇を通り、その先の背の高い藪をひょいと見上げたら、瘤のようなものが3つ。こんなところにカマキリの卵があったとは気付かなかった。おそらく一匹の親が産み分けたものだろう。
 手を伸ばして一つ採ってみた。果たしてカラカラに乾いていて軽い。すでに啓蟄も過ぎているので、とうに孵って今頃は小さな狩人たちがダニやらアブラムシやらを捕食していることだろう。一つの卵嚢の中には数百の卵が入っているので、千匹以上のカマキリの赤ちゃんがウジャウジャ駆けずり回っているのを想像してしまう。カマキリにとってはきっと居心地の良い藪に違いない。
 「おうじがふぐり」とはカマキリの卵の別称である。事典を調べてもそれらしいことが出ていないのでよくわからないが、「おうじ」は王子のことか。日本で王子と言う場合は親王宣下のない皇族の男子のことで、幼ない子という意味に取れば良いだろう。「ふぐり」は男性の陰嚢のこと。つまり、「おうじがふぐり」とは小さな子供のタマタマ袋ということ。なるほど見た感じはそれらしくて笑ってしまう。
 この辺りマンションがバンバン建っているので、彼らの天国がいつまで続くのかわからないけれども、こういう自然の造形を身近に見つけると、ほっと安堵する。
 さて千匹の内の何匹が生き残り、次代にDNAを伝えることができるだろうか。彼らにとってのサバイバルドラマは始まったばかりだ。

(2009/03/16)
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ミモザではない
 庭先に眩しい黄色の花房が穏やかな春風に揺れている。いずれ好天の下でカメラに収めて記事にしようと思っていた。 いつものように基礎資料を調べ始めたら、正しい名前を特定するのに少々手間取ってしまった。結論から言えば、ギンヨウアカシアというのが正しい。オーストラリア原産のマメ科アカシア属の常緑高木で、小葉が白粉をかぶって銀緑色に光ることからこの名があるようだ。
 ところが、大抵の人はミモザと呼んでいる。ミモザと言うと、私の場合、マチスがタピストリーの下絵として描いた色鮮やかなコラージュ(注)を思い出す。この題材となったミモザは南仏リビエラに咲くネムリグサのこと。ラテン語のMimosaはまさにこの草に付けられた名前であった。歳時記を開いても、夏の季語として、このネムリグサの方をミモザと呼んでいた。
 ところがところが、植物図鑑で調べてみると、フサアカシアという木の別名としてミモザとあった。房状の花の数がギンヨウアカシアより少なく、色も少し濃い感じがする。アカシア属なのは同じである。
 このアカシアがまたややこしい。アカシアと言うと、字面から赤い花みたいだが、Acaciaはラテン語で、ギンヨウアカシアに代表される黄色い花が普通である。
 ところがところがところが、日本ではアカシアと言うと、白くて芳香のある花が咲くハリエンジュという木のこと。昔、西田佐知子が歌った「アカシアの雨に打たれて」のアカシアも多分ハリエンジュのことだろう。植物学上ははっきり区別してニセアカシアという別名が付いており、属もアカシアではなくハリエンジュ属に分けている。
 つまり、アカシアは正しくはハリエンジュでなくギンヨウアカシアやフサアカシアのこと、ミモザはギンヨウアカシアでなくネムリグサまたはフサアカシアのこと、というわけだ。ややこしい、ややこしい。
 (注)このコラージュは伊豆の池田美術館でみることができる。

(2009/03/12)
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初音
 街中で初音を聞いた。いよいよ春を告げるさえずりだ。
 梅にウグイスと言われるように、昔から日本の春に愛されてきた鳥。ただし、梅の花札に描かれるウグイスは実はメジロである。明るい黄緑をウグイス色と言うけれども、本物のウグイスはくすんだ茶色の鳥だ。人懐っこくて姿を見ることが多いと書かれた文献もあるが、これもメジロと間違えているのではないかと思う。
 私の実感では、声がやたらに近く聞こえる割に、なかなか姿を捉えにくい鳥というイメージが強い。メジロやヒヨなど甘いものが好きな鳥なら、花の咲いている木のそばにいれば簡単に目にできる。ところが、ウグイスはムシクイという鳥の仲間で、群れることもなく、羽虫や幼虫を狙ってうっそうとした木の枝や藪の中にいることが多いのだ。当然、カメラに収めるのは簡単ではない。
 緑地公園の中でまた一羽大きな声がした。聞こえてくる方向を確認して、しばらくじっとしているとようやく姿を現した。かと思うと、すぐに飛び立って藪の中に隠れてしまう。ウグイスなど全然気にしていないジョギングの人が通り過ぎると、一気に声が遠ざかってしまった。
 時間もないので、あきらめて帰ろうと思った矢先。再び近くに声を聞いたので振り返ると、高い木の梢に止まっている。丁度ハナダイコンを撮っていた最中だったから、カメラもスタンバイしている。ズームをきかせてピントを合わせて、南無三、逃げるなよ・・・。よし、飛び立つ直前に捉えた。
 合成写真ではない。遠いので他人がそれとわかる写真でもない。インチキだと言われても構うもんか。ウグイスを初めてカメラに撮ったぞ。

(2009/03/11)
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落し物
 久し振りに緑地公園まで歩いた。途中、ハナアカシアが見事でカメラを向けたが、雲の多い空では全然光が足りない。ストロボを焚くと真夜中の写真になってしまう。よく晴れた日に、青空を背景にした黄色を撮りに来ようと、今朝はあきらめた。
 はっきりしない曇り空は春が深まってきた兆しでもある。暖かかったので、手袋を外して上着のポケットに入れた。帽子も取ってみると、前の髪まで汗で濡れていて、微かな風が当たると気持ちが良かった。
 道端に菜の花がひと株、明るい黄色を誇らしげに咲いていたのでカメラを取り出したとき、手袋が片方ないことに気付いた。どこかで落としたらしい。確か、ハナアカシアの辺りで外したような気がする。そこまで戻ることにした。
 ところが、どこにもそれらしいものは落ちていない。枯葉の色に似ているので、見落としたのかもしれない。もう一度、同じ道を歩くことにした。が、やっぱり見当たらない。犬の散歩のおじさんと、それからジョギングの若い女性とすれちがったから、もしかしたらこの人達が拾ったのかもしれない。いや、片方だけの手袋を拾うものか。必ずどこかに落ちているはずだと、再び戻ることにした。時計を見たら、いつもなら帰宅している時間をとうに過ぎていた。
 別になくしても良いじゃないか。これから季節はどんどん暖かくなって来るんだ。どうせ100円ショップで買った安物だ。必要ならまた買えばいい。頭のどこかでそんなささやき声が聞こえる。
 いや、高い安いの問題ではないのだ。今まで、夜明け前の街で寒風にかじかむ右手を守ってくれた手袋だ。それがだれかに拾われるのならまだ良い。そのまま雨に濡れ、泥に汚れ、風に晒され、靴に踏まれてゴミ箱に捨てられるとしたら、なんて悲しい一生だろう。どんなに擦り切れ、破けても、最後の最後まで手の汗と共に過ごせたら、手袋も手袋として生まれてきた甲斐があるというものだ。そう思うと、やっぱり何としても探し出してやろうという気持ちになってきた。
 ふん、手袋の甲斐だなんて、まるで原始的なアニミズムみたいじゃないか、そんなふうに自嘲する自分がいる。かと思うと、手袋が手袋としての役割りを全うさせてやるのが使う者の心意気だと思いたがっている、もう一人の自分がいる。こうなれば、来た道を逆に歩くだけだ。そう思って、ハナアカシアを過ぎてほんの20メートルほどのところだ。
 見つけた。そいつは道路の真ん中に、まるで迷子のように持ち主を待ち続けていた風だった。悪かったなあ、心細かったろう。
 大量消費大量廃棄に慣れっこになってしまえば、バカみたいな話にも感じるだろう。くだらないと笑わば笑え。だが、そんな感覚でエコロジーやらリサイクルやらを本気で実践できるものか。私が手袋の心を思うのは、決して宗教的な理由ではないのだ。それは例えばシステム工学の機能の話であり、品質の最適化の話なのである。
 それが何のために存在するのかを考え、その存在理由をムリなくムダなく全うさせること。裏返せば、本当に消費者が求めるものに命を吹きかけ、最適な状態で社会に提供すること。その気持ちなくしてこれからの経済再生などあるものか。
 安手袋ひとつ、粗末に扱えばきっとバチが当たる。

(2009/03/07)
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木立蘆薈
 ポツリと雨粒を感じたので空を見上げたら、赤い花が目に飛び込んできて、「ああ、アロエだ」と思わず声が出てしまった。
 このマンションの前の道は、いつも通っているのに全く気付かなかった。テラスのせり出しに固まって生えているのだが、どうやら鉢植えではなく地植えのようである。こんな立派な株が頭の上にあったなんて、思いも寄らなかった。
 アロエはラテン語。もともとはアフリカの乾燥地に分布していたのを、観賞用、薬用に栽培されるようになったという。サボテンのような多肉植物だが、ユリ科の仲間である。日本には江戸時代に広まり、ロエという読みに蘆薈(ろかい)という字を当てた。昔から薬用として重用され、医者いらずとも呼ばれる。
 これは最も一般的な木立アロエという種類で、八丈島の空港の周り一面にこの赤い花が咲いていたのが印象に残っている。伊豆下田のアロエの里でも、アロエベラと並んでこの花が咲き誇っていた。
 その姿・形からは暖かい時季の花というイメージだが、寒さの残る季節に意外な出合いを感じて、なにやら可笑しくなってしまった。ニヤニヤしている私の顔を他人が見たら、きっと頭が変に思われるだろうなと思いながら、「へえ、アロエだ、アロエだ」とまた声に出しながら坂を下りていった。雨が降り始める前に帰らなければ。

(2009/03/06)
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金柑
 道路に沿って、金柑が畑を囲う生垣のように植えられていた。通る人にどうぞとばかりにたわわに実が生っている。といって、もちろん、勝手につまんで口に入れるわけにはいかない。この道はいつものコースを少し外れた、初めて通る道。たまに、こうして道を変えて、思いがけない景色に出会うのが愉しい。
 金柑は晩秋の実り。近所の庭木はもうとっくに収穫が終わって、葉っぱだけになっているのに、この通りはそのまま放ったらかしだ。もしかしたら、ものすごく酸っぱいのかもしれない。
 金柑は蜜柑の仲間だが、ミカン類の中には入れないで、キンカン類という別の種類に分けている。よくわからないけれども、蜜柑が中の果肉を食べるのに対して、金柑は皮ごと食べるせいだろうか?
 ビタミンCが豊富で、昔から風邪の予防になると言われる。しかし、最近の研究ではビタミンCと風邪とはあまり関係がないらしい。それでも、ほのかに甘い皮をかじると舌がヒリヒリしてきて、ウィルスを撃退する殺菌力があるような気がしてくる。ガキの頃は、この実からあの虫刺されに付けるキンカンを作るのだと信じていた。
 店頭に並ぶ最近の金柑は、品種改良を続けてきたのか、かなり甘くて昔のイメージがない。美味しいことは美味しいのだけれど、なんだか個性がなくなってしまったようで、物足りなく感じる。
 暗さが残る日の出の直後、ぶれないように慎重にカメラに収めて、金柑の生垣を後にした。久し振りの青空だ。

(2009/03/05)
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斑雪
 車の音で目が覚めたので、ああ大雪にはならなかったなと、目をこすりながら外を見るとこんな感じだった。
 屋根屋根の雪も薄いベールを被った程度で、これなら日が照って気温が上がってくれば泡のように消えてしまうだろう。春の歳時記には淡雪とあった。冬に降る雪と区別するための呼称という。
 そのまま文字を追っていくと、次の項に斑雪(はだれ)という語を見つけた。まだらに消え残った雪、あるいは多く積もるほどには降らない雪の意とある。季語として使われるようになったのは意外に最近のことらしい。淡雪も良いが、あまり耳にすることのないこの語も味がある。

 街の音に目覚めて今朝の斑雪かな

(2009/03/04)
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菜種梅雨
 今日は上巳(じょうし)の節句。季節の花を充てて桃の節句と言う。
 この季節感は五節句が定められた江戸時代のこと。当時使われた旧暦の3月3日は29日ごろになる。わかっていながら、毎年、桃の花が咲いていない桃の節句に違和感を感じるのである。ところが、今年は見事にジャストインタイムのひな祭りとなった。
 このところすっきり晴れる日が少なく、菜の花の咲く頃の長雨、いわゆる菜種梅雨なのだと言う。この雨も例年なら3月下旬、桜が咲く前の天候と言うから、今年はよほどに暖冬なのだろう。上高地ではもう土が出ているとラジオが言っていた。
 菜の花の黄色と桃の花のピンクは、春を代表する色彩。いつもなら、もっと浮き浮きとして季節を愉しめるはずが、今年に限ってはだれもかれもがブルーに沈んでいる。今さら、政治・経済・社会のつまらない話など思い出したくもないが、美しい春の彩りが虚しく目に映るのがとても情けなく、ため息が出る。
 そうかと思えば、今夜は南関東でも積もるほどの雪模様になるそうだ。桃が咲く暖かさと思えば、指先がかじかんでくる寒さに、気持ちが全く落ち着かない。世の中全体が異常に息苦しく、ストレスを感じていない人はだれ一人いないのではないか。いや、永田町、霞ヶ関近辺を徘徊する狢たちだけは別かもしれんなあ。
 どうせ降るなら大雪になって、この世の嫌なものをすべて覆い隠してしまえ。一切混じりっけのない純白の世界になって、朝が来れば良い。・・・いや、そうなると交通機関がストップしてまたまた経済に大打撃か、と、折角ロマンチシズムに浸ろうと思っても、すぐに現実に戻ってしまう悲しさ。
 外はちらほら舞い始めたようだ。

(2009/03/03)
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堆肥
 三大栄養素と言えば、炭水化物・脂肪・蛋白質。炭水化物と脂肪はエネルギーや熱になり、蛋白質は体を作る。だが、これは人間や動物にとっての栄養素。
 植物はというと、理科の授業で窒素・リン酸・カリと教わった。窒素肥料の代表的なものは硫安と呼ばれる化学肥料。これは植物の体、つまり幹や葉を作る。リン酸は花を咲かせ果実を実らせ、カリウムは根を育てる。種類や与え方など、色々と難しい技術があるようで、素人が気楽に語れる話題ではない。
 当然、昔の人、例えば江戸時代の人は化学肥料なんて見たこともないだろうし、三大栄養素なんてことも知らない。それでも、お百姓さんや職人さんは、草木が土と水だけで育つものではないことをよく知っていた。それは経験から学んでいたのだろうけれども、下肥や堆肥、草木灰などを必要な時期に与えて、農作物や植木の生長を促したのだ。
 下肥は人糞のこと。それに含まれるアミノ酸やアンモニア成分を思えば、これは正に典型的な窒素肥料であった。人間の体の中にはリンやカリウムがミネラルとして存在しているから、下肥にもそれが含まれていることは推測できる。だから、これは万能の有機肥料と言えるかもしれない。
 西武線のことを昔は「汚わい列車」と呼んだ。西武線の走る郊外は、大都会の食を満たすための田園地帯が広がっていて、肥料に使う下肥を運んでいたために、そう呼ばれたというわけだ。小学校の遠足で沿線の道を歩いたとき、確かにあの強烈な臭いがどこからか漂ってきたものだ。そんな経験を思い出すと、今の田畑のなんと清潔なこと。
 閑話休題。
 堆肥も同様の有機肥料だ。こうして、落ち葉や枯れ枝を集めて発酵させ、栄養分を吸収しやすくさせるのである。発酵は熱を発するので、この堆肥の中は寒さを凌ぐ虫たちの格好の越冬場所となるはずだ。この大きな堆肥の囲いにカブトムシやクワガタの幼虫が眠っているだろうか。そんな想像をして外側の板に触れてみたが、寒風が当たってやたら冷たく、一気に興も冷めてしまった。
 エコロジーやリサイクルといった言葉が、この不況を打破するキーワードとして注目されている。メディアも色々アイディアを紹介することが多くなった。しかし、わが国の農業を思えば、時代を遡れば遡るほど本物のエコロジーをすでに体現していたような気もする。時代は、われわれが忘れていた大切なものを、思い出させようとしているのかもしれない。

(2009/03/01)
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