コンセプトは ”どうしたら面白くなるか?” 庭先の博物誌 画・文:平澤 功
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梅の香 090131 においぐさ
090126 かんれいぜんせん
090125 はつゆき
090120 こぶとり
090115 せぐろせきれい
090113 れもん
090110 もんしょう
090109 つめたいあめ
090104 きぼうのあさ
090102 はつふじえんぼう
090101 がんたん
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 梅の花がほのかに香って良い気持ち。
 朝ぼらけがだいぶ早くなってきたよ。
 でも、散歩の初めはまだまだ寒くて指が冷たい!
 だから、せっせせっせと歩いて体を温めよう。
 それから、外から帰ったら、うがいと手洗いを忘れないでね!
備忘録めもらんだむ・・・常時工事中です。歯抜けでも差し支えなければどうぞご覧ください。 午後の絵本…オリジナルのイラストです。ヒマなときにどうぞ。
(2009/01)
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匂草
 雨でちょっと散歩をさぼっていたら、いつの間にか梅がほころんでいて、ほんのりと上品な香りを庭先に漂わせているいる。それも、一つ気付いたらあちこちで白花が目に入り、春はすぐそこまで来ているんだなあという実感がある。
 日本では花と言えば桜を指すが、中国では梅である。日本でも中国文化の影響を強く受けた万葉の時代は、貴族によって詩歌に詠われたり絵に描かれたりして、桜よりも賞美された。晋の武帝の故事から好文木と呼ばれる。わが国でも湯島の白梅など、学問や文化との関わりをイメージさせる雰囲気があるのが面白い。
 枝に散らばる白い花も印象的だが、なんといって芳しい香りが梅の魅力だ。散歩の途中で鼻をかすめると、そこに立っていつまでもその香りの中に浸っていたい欲求に駆られる。匂草(においぐさ)とか、香散見草(かざみそう)、香栄草(かばえそう)など、その香りにちなんだ別称がある。また、春告草(はるつげぐさ)、風待草(かぜまちぐさ)、初名草(はつなぐさ)とも言う。
 さて、ここでふと疑問を持ってしまった。梅といえば間違いなく木だと思うのだが、これらの別称は草としている。梅って実は草なのか?木と草とは何が違うのだろう?
 いろいろ調べてみたのだが、はっきりした定義が述べられている文献がない。この曖昧さが我慢できない自分はやっぱり理系なんだなと、こんなどうでもいいことで変に納得している。
 @肥大成長して木部が発達する、A年輪を持っている、Bリグニンという物質を主成分とする、というのが木で、これに当てはまらないのが草というのが、大方の区別のようだ。それに当てはめれば、やはり梅は木なのだろう。まあ、美しい花、心地良い香りを愉しみながら、暖かい春の到来を感じることができれば、そんな細かいことに目くじらを立てる必要などあるまい。

 梅が香に呼び止められる軒端かな

(2009/01/31)
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寒冷前線
 稜線がくっきりと浮かぶ峰々を背景にして、高層ビルが並んでいる。
 実は、元旦にご来光を拝んだ公園から見た、都心の高層ビル群なのだ。この右方にお天道様が昇るのだが、顔を出すまでいつもより時間が掛かりそうだ。この大きな山のように見える雲は、各地に雪を降らせた寒冷前線の雲である。まるで日本アルプスの穂高連峰や甲斐駒仙丈の連なりを彷彿とさせる。
 雲なんてほとんど気にすることもないと思うが、見方を覚えると天気の移り変わりをいろいろと教えてくれる。富士の上のかさ雲は雨降りの前兆だとか、すじ雲がカギ状に曲がるようになると一面の高層雲に覆われるとか、昔の人はそのように雲の形から明日の天気を予想した。観天望気と言う。
 山歩きが好きだったので、ラジオの気象通報で天気図を作ってみたり、雲や風向きを調べたりして山行の準備をしたものである。気圧や前線、地形などとの関係がわかってくると、ただの雲と思っていたものが天候急変の予兆ということが見えてきて、とても面白い。中学校の理科程度の知識で、あとは経験さえ積めばだれでも簡単に観天望気ができるようになるだろう。
 中には雲で地震が予知できるなんていう人もいる。私も一時興味があって、阪神淡路大地震の際に調査機関がまとめた資料を手に入れたが、残念ながら、地震と雲の関係を説明できる理論が何もなく、結局、ナマズが騒ぐと地震が起こるのと同じ程度の確度しかない。気象庁の正式見解も関係は認められないとしているのは当然だと思う。
 しかし、そんないい加減な見方でも構わないから、たまに雲を眺めて、その多様な造形を愉しんでみると良い。あるとき、学校帰りの小学生が遠くの雲を指さして、ワニみたいだと友達に話していた。きっとその子の頭の中では、大きな口を開いたワニの姿が見えたのだろう。自由奔放な雲の形は、発想を鍛える格好の教材だ。

 寒冷前線雪降らし山となる

(2009/01/26)
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初雪
 このところ明け方の天候が芳しくなく、散歩に出られない日も多い。昨日も予報では午後から晴れると言っていたのに、ガレージの屋根を叩く音がやかましいくらいの強い雨だった。
 雨は夜更け過ぎに雪へと変わるだろう・・・♪なんて月遅れの歌を口ずさみながら、風呂に浸かっていたら、妙に外が静かになったので、窓からそっと覗いてみると本当に雪になっていた。それも半端な降り方ではない。着替えて二階の窓を開けてみたら、すでに屋根が真っ白くなっていた。明日は一面の雪道の散歩だな♪と、子供みたいにウキウキして床に入った。
 さて、翌朝は新聞配達のバイクの音で目が覚めた。・・・なに?新聞配達だと!? 雪の朝はもっとシーンとしていなければいけない。床を飛び出して外を見たら、なーんだ全然積もってないじゃないか。雪は夜更け過ぎに雨へと変わったんだ・・・と、がっかりした途端、朝の寒さに気付いて思わず身震い。空は星が出て久し振りの好天だ。もしかしたら、どこかの公園には雪が残っているかもしれない。気を取り直して顔を洗い散歩に出た。
 確かに公園や畑の土には雪が付いていたけれども、カメラに写してみたら降霜と似たり寄ったりで、雪が降ったような感じがちっとも出ない。近くのグランドは芝生のところだけが真っ白になっているのが面白かったけれど、写真にしたら水を被ったように見えるだけだ。結局、ひと回りしただけで帰宅した。
 ラジオで横浜が初雪と報じていたから、この辺りもこの冬初めての雪だったのだろう。先日の東京の初雪はみぞれが少し降っただけだから、それに比べたら立派なものだ。昨夜と同じように二階の窓を開けたら、まだ白いのが残っていた。うん、この屋根の方が雪らしくて良いなあとカメラに収めた。

 初雪が解けて朝餉の音を聞く

(2009/01/25)
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瘤取り
 マンションの脇の細い道を通り、急な階段を上ると、白富士を望む眺望が楽しめる高台の道路に出る。寒い寒い。寒いと思ったら、今日は二十四節気のひとつ大寒か。月がおぼろに霞んでいる。藪の向こうに見えるはずの丹沢連峰も、今朝は厚い雲に覆われて灰色の空が広がるばかり。
 普段は全く気にしない藪だが、その中に柿くらいの大きさの丸い実を散らした枝を見つけた。よく見るとそれは実ではなくて、枝の節や分れ目についている奇妙な固まり。道路からとても手の届くところではないのでよくわからないが、これはきっと木の瘤だ。
 そこで帰宅してから早速、瘤について調べてみる。植物にできる瘤には、虫が作る「虫えい」と、菌類が寄生してできる「菌えい」があるという。中を割ってみないと専門家でも判断できないらしい。あの瘤の中はどうなっているんだろう。
 瘤ということで検索していくと、瘤取りという言葉も目に入ってきた。桃太郎や一寸法師すら知らない子供・若者が増えてしまった昨今、瘤取り爺さんの話をしても興味なんか示さないだろうな。
 知っていれば役に立つというものでもないけれど、昔話は年齢を問わずみんなが共有できる伝統文化。しかし、ある年代はドラゴンボールだ、また別の年代はガンダムだ、ナルトだ、なんやかんや。文化が世代によってズタズタに分断されているのが現代の日本。総理大臣が殊更に若者文化をひけらかし、これをもって国民目線と勘違いするのもむべなるかなである。
 瘤取りについて、太宰治が「御伽草子」という短編を書いている。戦時中、防空壕の中での話という設定からして今の人には受けそうにないが、昔話を噛み砕きながらの語り口がとても面白い。本当はこの短編についての話をしたかったのだけれど、結局愚痴話になってしもた。
 海の向こうでは今日世界中の期待を担って新しいリーダーが誕生する。対して、この国のリーダーは8割以上の国民が愛想を尽かしている。さてさて、この目の上の大きな瘤を取ってくれる鬼がどこかにいないものか。

(2009/01/20)
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背黒鶺鴒
 冬は野鳥が餌を求めて里に下りてくるので、あちこちで可愛らしい姿を見ることができる。実際、朝の散歩で出会う鳥の種類は一つや二つではない。そこで、記事のネタにしようとカメラを構えるのだが、当然のことながら相手は植物のようにじっとしていない。おまけに光量不足のためにぶれてしまって、何が写っているのかわからなくなってしまう。
 今朝も、所詮安物のデジカメではムリと思いつつシャッターを押したら、珍しくぶれずに撮ることができた。実は、この右手につがいの相方がいるのだが、そちらは残念ながら撮りきれなかった。
 これはセグロセキレイ。アングルが悪く、独特の上下に振る長い尾羽がさっぱりだけれども、背中の白い筋はしっかり写っている。チョコチョコと素早い足取りで地面を歩き回って餌を探す。とても人懐こく、驚かすようなことをしなければ1メートルぐらいまで近づいても飛び立つことはない。
 波のように揺れて飛ぶのもセキレイの特徴。広げた羽がその名の背黒と対照的に白く光って見えるのがとてもきれいだ。書物によると、キセキレイの方が人里では多く見かけるとあるが、私の実感ではセグロの方が身近に感じる。
 そばに止まった乗用車から、目一杯メタボのおっつぁんが煙草をくわえながら降りてきた。バタンとドアを閉める音にびっくりして、2羽とも飛び去ってしまった。朝っぱらから音楽とエアコンをガンガンかけっ放しで、近くの自販機にコーヒーでも買いに行くのだろうか。身の回りに息づく野生には全く関心がないようだ。
 でも、今朝はやっと鳥の写真が撮れて少しだけ気分が良いので、この無粋な男は無視することにしよう。
 ジジ、ジジっと、遠くからさえずりが聞こえた。
(2009/01/15)
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檸檬
 歩いていると柑橘類の黄色い実が目立つ。この檸檬も11月ごろから黄色くなり始めていたが、そろそろ採り頃のように見える。と言っても、やはり酸味が強いから鳥も敬遠して、うちの蜜柑のように突いて穴を開けることもない。
 夏の炎天下で体を動かした時など、スライスして砂糖漬けにしたものを口に入れると、渇きを癒すことができるだけでなく、疲労回復にもなる。イメージとしては完全に夏の果物だが、こんな寒い時季に実がなるのは意外な感じもする。図鑑等で調べると、産地では1年中収穫できるのだそうだ。あまり季節感がない果物だが、俳句の季語としては秋に分類されるようである。
 梶井基次郎という作家が同名の小説を書いている。中学か高校の国語の教科書に載っていた記憶がある。それも、至極わかりにくい話だったような印象が強く、ほとんど内容を覚えていない。
 書棚に古い文庫本があったので開いてみた。わずか数ページの短い作品ながら、なるほど、軽く目を通しただけでは何がなんだかよくわからない。それではと、文言をじっくりかみ締めながら読んでいく。それも1回だけでなく繰り返し読んでみる。その内に、あることに気が付いた。
 作品の解説をするつもりはない。興味がある向きは自ら読まれることをお勧めする。作者は大正から昭和の初めにかけて活躍した人で、病弱のために31歳で夭折している。この時代のテンポがそうなのか、あるいは日本文学が本来持っている味なのか、要は、散歩途中の他愛もない話なのだが、その数時間の中の感情の起伏、思考の深さに、すんなりとついて行けてない自分に愕然とするのだ。
 短い時間の濃密な思考描写より、スピード感あふれるストーリー展開の方が受ける時代だ。今は、このように、じっくりと自分の感覚を表現するような文章を見る機会はほとんどない。あるいは、重たい文章よりも、画像中心の軽いコミュニケーションが主流となっていることを思えば、くどい、考えすぎ、意味不明とされてしまう方が当然かもしれない。
 では、今の人は普段何も考えていないのかというと、そうでもなかろう。いや、当時と比べれば思想の自由が保証され、有り余る情報が手に入る現代人の方が考えていることは多いに違いない。恐らく情報処理がオーバーフローして感受性が麻痺し、結果として中身の希薄なバラエティやお笑いと同レベルになっているというのが本当のところだろう。もちろん、私も例外でなく・・・。
 小説の中の檸檬は、異常な美しさをもって、主人公に奇妙な行動をとらせる。この目の前の黄色い果実を眺めて、果たしてそんな魔力を持っているのだろうかと、改めて思いをめぐらしてみるのである。

(2009/01/13)
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紋章
 冬の枯野は見るべきものはあまりないと思いきや、意外な自然の造形に出会うことがある。
 夏場にあれだけ繁茂していた雑草は、どのように越冬しているのだろうか。カラカラの空気の中にミイラ化した残骸をさらしているもの。影も形もなくなって、種子となって発芽の時を待つもの。大抵はそんなところだが、中にはしっかりと地面にへばりついて、夏の面影を留めているやつもある。
 例えば、タンポポやオオバコなどは、沢山の葉をまあるくペタっと地面に接している。こういう葉をロゼット(根生葉)と呼んで、実はこのロゼットが食べられる山野草が結構多いのだ。オオバコがそうだし、春の七草の御形(ハハコグサ)、仏の座(コオニタビラコ)もこの姿の幼苗である。
 写真はオニノゲシという、夏場ちょいとばかり厳つい姿のノギクの仲間。葉の先端にトゲがあるので、採って食べる気にはとてもなれないが、見事なロゼットになっていると思わないか。夕べ上がった雨による湿気が、今朝は霜となって葉に付着し、まるで未知の宇宙生物のようだ。
 うーむ、ただ宇宙生物って言っても芸がないな。フリーズドライのお好み焼き?珊瑚礁を食い荒らすオニヒトデ?いやいや、この形はヨーロッパの古い貴族の紋章かもしれない。そうだとすれば、これは勇者の盾。冬の夜空に輝くオリオンの盾。RPGで冒険中に武器アイテムを見つけたようなものだ。
 想像力を豊かにすれば、冬の枯野はもっともっと愉しくなる。

(2009/01/10)
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冷たい雨
 久し振りの雨。このところ空気が乾燥して、あちこちで痛ましい火災事故が連続していただけに、ホッとさせてくれる天の恵みだ。
 東京で初雪。雪と言っても、夜明け前の最も気温が下がる時間帯にミゾレを観測しただけのこと。記録の上ではこれが初雪となるのだそうだ。初霜や初氷みたいに実体を見ればなるほどとも思うが、これでは全く実感が湧かない。本当に雪が降っているなら散歩に出るのも一興だが、歌の文句じゃないけれど、冷たい雨に打たれて街をさまようのは御免なので、今朝は布団の中でしばしの温もりをむさぼった。
 雨はカラカラの土に吸い込まれ、引力に逆らうことなく地下に浸み込んでいく。空気中の湿り気は、晴れた朝に霜となって地表に降り立ち、日が昇って融ければ蒸発する前に毛細管現象で土に取り込まれていく。地表近くにわずかに残った水分は霜柱となってまとまり、融けて地下に浸み込んでいく。こうして、再びカラカラに乾いた空気になるわけだ。
 この雨をもたらした低気圧が東に抜けると、大陸から冷たい風が流れ込む西高東低という気圧配置になる。つまり、雨や雪が降るたびに寒さが厳しくなっていくのである。なんてことを朝のテレビで気象予報士の先生が真面目くさって解説している。しかし、こんなこと、中学の理科で教わることだから、もっと難しい政治経済の問題をあれこれ言うニュースキャスターやコメンテーターがびっくりしたような顔して聞いているのは、ものすごい違和感があって見ちゃいられない。
 寒さはこれからが本番だ。しかし、冬の気圧配置もいずれ緩んで暖かい春が訪れる。思えば、政治経済も今が真冬。これからさらに厳しい耐乏を強いられるのだろうが、永久に続くわけではない。冷たい雨は春が近づいている確かな証拠でもあるのだ。

(2009/01/09)
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希望の朝
 年明け最初の日曜日。
 夜明け前の街中はつまらないので、今朝はラジオを聞きながらの散歩。ちょうど6時半をまわったところで、ラジオ体操の歌が始まった。

 新しい朝が来た、希望の朝だ・・・♪

 この歌、昔と全く変わっていないので、何十年もこの時間に流れていたんだなと思うと、なにやら不思議な感動を覚えてしまう。
 公園で体操をしている人が一人。手足の動かし方を見ていると、ラジオの音楽とぴったり合っているから、あの人もきっとイヤホンで聞いているんだろう。
 確かNHKの「ためしてガッテン」だったと思う。ラジオ体操というのは、いくらやっても減量とか運動不足にはほとんど効き目がないらしい。自分のところの番組が効果なしとは変な話だが、よくよく聞いてみると、ラジオ体操には別の大きな効果があるのだという。
 つまり、普段使わない筋肉を動かし、普段やらない姿勢を意図的に取ることによって、体にその感覚を記憶させておく。これによって、例えば、転んだり事故に遭ったりしたときに、ケガしない体勢を即座に取る能力が身に付いてくる。健康のため、鍛錬のためというより、事故予防のためなのだ。
 お馴染みのラジオ体操も、簡単バージョンのみんなの体操も、見た目には大した運動ではないのに、真面目にやると結構体がポカポカしてくる。みんな照れ臭いのか面倒臭いのか、ちゃんとやる人を見ないが、水泳やスキーなどの前の準備体操は大きな効果があるに違いない。多分、散歩も。
 明日から本格的に経済が動き出す。この船出は未曾有の暗闇の中、行く手に大きな大きなうねりが待っている。もはや、政治家、官僚、学者の言うことは全く当てにできない。日頃から様々な事態に備えて自ら研鑽を図っておかないと、希望の朝を迎えることはできないだろう。ラジオ体操と同じだ。

(2009/01/04)
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初富士遠望
 今朝も良い天気。でも瓶に氷が張っていなかったので、昨日よりは少し寒さが緩んだか。
 とはいえ、夕べ、ウヰスキーをちょっとやりすぎて、冷たい空気が頬にビンタをするようにビシビシ来る。昨日見た初富士が印象的だったので、今朝は富士がよく見えるコースを選んだ。
 これまで2回ほど富士を取り上げているが、いずれも望遠にしているので大きく撮れている。建物の間からのぞく富士は実際大きく見えるのだが、眺望のきく高台から見る場合は、実はこんな感じの小さな白い突起にすぎない。
 それでも、この光景を目の当たりにすれば、やはり、足を止めてシャッターを押したい気分になる。小さく収めた写真ではとても再現は難しいが、視野全体にこの光景が広がっていることを想像して欲しい。ときどき、柏手を打って礼をしている人を見かけたりする。富士山というのは日本人をそういう気持ちにさせる山なんだなあ。
 今日2日の夜に見る夢が初夢だという。初夢に見ると縁起の良いもの、一富士・二鷹・三茄子。ゆっくり富士を愉しんで目に焼き付けておけば、今日は良い夢が見れるかも知れぬ。

(2009/01/02)
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元旦
 昨日、風呂掃除で足を滑らせてひっくり返ってしまい、そのときに打った左の肋骨が痛くて、どうも散歩に出る気になれない。そうこうしている内に空が白んできた。初日の出を撮るのに良い場所を見つけておいたので、えいっと気合いを入れて家を出た。
 ここ数日は温暖な日和だったのが、雲も少なくよく晴れて今朝は一段と寒い。
 日の出までは少し時間がある。コース途中にある小さな神社に人影なく、本殿の扉もまだ開いていなかったが、ここで初詣を済ます。私は立派な政治家でも偉い経済学者でもないので、願い事は身内のことばかり。今年も無病息災、家内安全でありますように。
 そこから30分ぐらいで目指すポイントに至る。普段は人っ子一人いないのに、今日はいつもと大分様子が違う。大勢の人が集まり、良い場所はどこも占領されて、林の隅に追いやられてしまった。やれやれ。
 元旦とは元日の朝のこと。旦の字は地平線の上にお天道様が現れる姿を示している。まもなく金色の光が差したと思ったら、見る見るうちにお天道様が顔を出した。カメラのシャッターを押す人、歓声を上げる人、柏手を打って祈る人、人それぞれの元旦。
 昨日と変らぬ一日が始まるだけなのに、今日という日を元日と呼ぶ。深く考えもせず、朝っぱらからみんな飲んだくれているけれども、これは、基準を設定するということだ。
 人は基準がないと判断ができない。原点という基準がなければ幾何は解けない。氷点という基準がなければ温度は測れない。親という基準があって他人を判断する子供。標準という基準があって仕事を覚えていく作業者。元日は年の初め。元日があるから年を比較できる。年を数えられる。今日は基準の日。酒盛りの日ではないよ。
 人は基準がないと判断ができずに不安になる。また、基準がない判断には不信感を抱く。
 今の社会を見てごらん。政治の基準、経済の基準、社会保障の基準、生活の基準、公序良俗の基準、どれもこれも曖昧模糊としてわかりづらくなっているから、みんな不安になって大不況。あっという間に、生活苦、精神不安定の人が増えてしまった。どうも、エライ先生方を見ていると、この国のこの状況はすぐには好転しそうにない。
 元旦を撮り終えた家路、お天道様と対峙して、西の空に富士のお山が静かに鎮座ましましていた。このどっしりと頼り甲斐のある姿にあやかって、なんとか良い年になって欲しいと祈るばかり。

(2009/01/01)
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