コンセプトは ”どうしたら面白くなるか?” 庭先の博物誌 画・文:平澤 功
おもしろがりホーム
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Intermission 081129 きいろいわだち
081126 ぐんかん
081124 さざんか
081123 ふじみ
081122 かまきりのゆめ
081121 きりくち
081120 ひとやすみ
081119 なかよし
081118 ぞく・てんぐ
081117 こーひーぎゅうにゅう
081116 すいさい
081115 ひくうてい
081114 てんぐ
081113
たいせき
081111 あさがおそのご
081110 のぶしそのご
081104 かれいちょう
081103 のぶし
ああ、
あそこで
ひと休みしていこう

もう
紅葉の季節も
終わりだなあ

(2008/11)
おすすめの出し物
   品質でもうけなさい…品質「補償」活動・「お祭り」品質管理に決別を!品質問題の本質と解決の考え方を豊富なイラストでやさしく解説します。 改善提案名人に挑戦!…生産改善のコツを楽しい物語で解説。
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黄色い轍
備忘録めもらんだむ・・・常時工事中です。歯抜けでも差し支えなければどうぞご覧ください。 午後の絵本…オリジナルのイラストです。ヒマなときにどうぞ。
 こんな風に道路一杯に広がる落ち葉から、雪化粧を連想してしまった。
 と言っても、雪国の人には怪訝な顔をされるかもしれない。南関東で雪が降るときはせいぜい2〜3センチの積雪しかなく、薄っすらと道路を覆うだけでも子供たちは大喜びになるのだ。道路の雪が車に踏まれて水気を含み、地面の黒と混じりあってグレーの筋になって残る。日が昇って気温が高くなると、ビチャビチャに解けて、その日のうちに消えてしまうのがここら辺の雪。
 その雪の色が真っ白でなく、黄色をしていたら丁度こんな風だろうなと立ち止まってみる。同じ雰囲気は春のサクラのときに味わえる。濃い色のモミジやカエデではこの感じは出ない。黄色やピンクが明度の高い色だから出てくるポップな愉しさ。
 日が昇り、やがて家々の人が起きてきて、この光景を目にするだろう。きっと、のんきに面白がっているより先に、せっせと枯葉を掃き集めて道路をきれいにしてしまう。
 そうか、その日のうちに消えてしまうのも、雪と同じだなあ。

(2008/11/29)
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軍艦
 暗いうちに家を出て、散歩の途中に日の出を拝むようになると、いよいよ師走だなあと感じさせる。
 今年は、例年にも増して寒風吹きすさぶ厳しい冬だ。ほとんどの人が経験したことのない地球規模の経済不況。年末に向けて倒産する企業は、過去最大と言われる。そうかと思えば、目に余る行政の腐敗、無差別殺人がニュースから消えることがなく、政治は国民生活を全く無視して政局に奔走している。
 戦争は必ず経済不安が引き金になる。70年ほど前もよく似た社会情勢の中で保護主義が台頭し、軍閥が次第に政治力を強めて暗黒の時代に突っ込んでいったことを忘れてはいけない。先日、自衛隊元幹部の論文が問題になったように、人知れぬ暗闇で同じような力がうごめいていることを知れば、昔の話と笑い飛ばすわけには行かない。
 75歳以上のお年寄りは知っている。最初は他所事のように思っていたのが、気が付いたときにはすべて戦時体制に様変わりしたことを。その貴重な経験をされている方々をバカにし、ないがしろにしているのが今の時代。そんなところにも危険な臭いを感じてしまう。
 この方々は当時の軍国少年少女。同じように朝日を眺め、そこに横たわる大きな雲を勇ましい軍艦に見立てて、来たるべき決戦に心を燃やした人もおられるだろう。しかし、今の子供たちにそんな見せかけの悪夢を見せてはいけない。
 今、戦争の悲惨さを象徴するような映画が話題を呼んでいる。作品の出来についてとやかく言う必要はない。こういう映画を見て、二度と不幸な社会にならないように、一人ひとりが地に足の着いた判断をしなければいけないときなんだと思う。(・・・たとえ政治に我慢できなくても)

(2008/11/26)
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山茶花
 ヤマチャカ・・・ではなくてサザンカ。
 本当は1週間ほど前に通ったときにカメラに収めておいたのだが、絞りの具合が悪くてまともな写真が1枚も撮れなかった。そのときはもっと沢山の花が付いていたのに、今日はほとんど下に落ちてしまっている。
 名前の通り、お茶室に活けて似合う花である。昔はこんな風に生け垣にして親しまれたのだろう。最近はセキュリティーのこともあって、生け垣自体が珍しいものになってしまった。この生け垣は民家ではなく生産緑地帯に設けられているものだ。
 垣根の垣根の曲がり角、焚き火焚き火だ、落ち葉焚き・・・という唱歌に出てくる垣根は、サザンカの生け垣。
 今日は午後から雨が降るらしく、風がいつもより冷たくて寒い。こんな寒い日に、落ち葉をかき集めて焚き火をして・・・。そうそう、もちろんみんなで焼き芋をホクホクしながら頬張って・・・。こんな街の中で焚き火なんてやったら、消防から注意されてしまうのだろうか。そういう風景も見なくなった。
 寒い寒い。サザンカの花の少なさが冬の到来をいっそう強く感じさせる今朝の寒さ。

(2008/11/24)
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富士見
 いつもなら黙って通り過ぎる路地を、時々わざと曲がってみて、新しい抜け道の発見に喜んだりする。今朝もそんな気まぐれで、坂の途中の小さな十字路を左に折れて、しばらく道なりに歩いてみた。ところが、ほどなく大山街道に出てしまい大失敗。
 休日の早朝だから、車の量は大したことがないが、それでも広い国道沿いの歩道を散歩コースとして歩くのは、なんとも味気ない。とはいえ、今来た道を戻るのもつまらないし、次の角まで我慢しようと歩き始めたら、おお!なんと、目の前に見事な白富士ではないか。
 富士山。外国からすれば日本の象徴みたいな山なので、全国共通の話題と勘違いしがちだが、富士山が普通に見えるエリアは東海・関東を中心とする限られた地域にすぎない。だから、得々としてこの山の話をしても、日本人の半分いや6〜7割はシラーっとしているに違いないのだ。そんなことを承知の上で、富士山について語る。
 いつも通る公園や高台からもよく見えるが、家々の屋根がひしめく広い視野の向こうに丹沢の峰が連なり、さらにその向こうに頭だけチラッと見えるのが富士である。だから、ここら辺からは遠くに小さく見える山という印象である。 ところが、この国道から見える富士はなんとまあ大きく見えること。周囲に町並みが迫って見えるための錯覚なのだが、こうやってカメラに撮ってみても近くの山という感じがする。関東にはところどころに「富士見」という地名がある。確かこの近くにも富士見坂があったと思う。それらはみんな、こんな風に富士が大きく見える場所なのだろう。
 富士は不二、富士見は不死身に通じて縁起が良いとされる。日本各地に富士の名がついた山があり、土地の人に愛されている。そう考えれば、やっぱり富士山は全国区なのかもしれない。
 さて、あの富士山の上に出ている雲は、紛れもない悪天を告げるレンズ雲。晴れは今日まで。明日からはまた冷たい雨が降りそうだ。

(2008/11/23)
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蟷螂の夢
 彼女は腹を空かしていた。
 昨日までは、この広いカヤの原を徘徊していれば、コオロギ、バッタの類に事欠かなかった。すばしこいハエやアブですらも彼女の洗練された狩猟技術をもってすれば、簡単に捕食できた。
 ところが、隣接する日当たりの良い土手で、カメムシ狩りに夢中になっていた後に戻ってくると、うっそうとしたカヤがすべて刈り取られ、根っこだけが残る荒涼とした平地になっていた。三角形の頭をくるりと回し、自慢のカマの腕で大きな目をこすっても、一変した光景が元に戻ることはなかった。一体何が起きたのか、もちろん彼女に理解する術はなかった。
 間もなく訪れる産卵の時期を控えて、とにかく今は体力を蓄えるだけが彼女の仕事であった。やむを得ず再び土手に向かったが、こちらもすでに丸裸の状態に変っていた。
 目の前を動きの鈍いワラジムシがはっていく。いとも簡単にこれを両のカマで挟み込み、ゆっくりと腹の中に収めていく。食べ終わるとカマの刃を口でぬぐい、触角を動かして周囲の気配に注意を払うが、そこにはもはや彼女が必要とするものは何もなかった。
 それどころか、こんな見通しの良い場所では逆に自分が野鳥の餌食になってしまう。ここは危険だと、本能が彼女に教えていた。あれだけたくさんいた兄弟姉妹たちのほとんどがそうやって鳥やネズミの犠牲となり、DNAを後世に伝えられる個体が彼女のほかに残っているかどうかは、神のみが知るところだった。
 刈り取られた原とは逆の方向に歩き出す。そこは死の世界のような冷たいアスファルトが広がっていた。それでも、何かに憑かれたように彼女は歩き続けた。時折り、この世のものとは思えない轟音と共に大きな黒い影が空を覆い、過ぎ去っていった。
 側溝を越え、なんとか、命の感じられる土の匂いのする空き地にたどり着くと、枯れかかっているノギクの花にシジミチョウが管を伸ばして、ないに等しい蜜をむさぼっている。これを捕らえて口に運ぶのに何の苦労もいらなかった。しかし、これで今は持つが、空腹はすぐにやってくる。
 彼女は、再びアスファルトの海を渡る決意をした。そして、側溝まであと少しというところに来たときである。それは轟音を伴わず、静かに、突然空から降ってきて彼女の体を押しつぶした。
 「ちぇっ、カマキリ踏んじまったよ」 男はそう言って唾を吐くと、不機嫌な顔をしてその場を立ち去っていった。
 ・・・・・・
 この死骸には一体どんなドラマがあったんだろう?

(2008/11/22)
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切口
 長い階段を上ってようやく頂上が見えた。どうやら、期待通りの紅葉真っ盛りのようだ。吹き抜ける風が汗に当たって寒い・・・なんていうコメントをつければ、奥多摩か丹沢あたりでハイキングしたときの写真と言っても疑う人はいないと思う。
 絵や写真が面白いのは、焦点となる部分だけを切り取って作品にすれば、見る人は自分の記憶からロケーションを想像して、勝手に周囲の情景を創り出してしまうところだ。この写真の場合、撮影者である私が立っているのは住宅街の中のアスファルトの上。この景色はどこにでもある児童公園の入り口で、数日前の「珈琲牛乳」という記事で紹介したスズカケが正面に写っている。
 安物のデジカメ片手に「庭先の博物誌」なんて粋がっていても、所詮は大都市通勤圏の住宅地。これといった季節の被写体を得るのはなかなか難しい。散歩の途中で少しでも気になる光景に出会ったら、躊躇なく撮っておいて後で仕分けるぐらいが関の山。ほとんどがコメントのしようがないクズ写真ばかりだが、たまに面白そうな切口になっているものがある。
 この何の変哲もない階段の写真も、見る人の頭の中で全く違うオリジナルな世界になっているかもしれないと考えると、それだけで面白いなあと思ってしまうわけである。

(2008/11/21)
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ひと休み
 大通りの交差点で、車の音に混じって羽音が聞こえたので、あたりを見回すと電線の上に数え切れないほどの鳥の大群。写真はほんの一部にすぎない。
 これが各地で問題になっているムクドリなら、朝っぱらからかまびすしい鳴き声でイライラする上に、大量の糞の無差別爆撃に見舞われることとなる。カラスなら、アルフレッド=ヒッチコックの恐怖映画よろしく、一斉に襲ってくるかもしれない。ここは早々に退散というところだが、意外に静かで落し物もさほどひどくはない。実はハトの群れであった。おそらく、どこかで飼っているのがひと休みしているんだろう。
 人間の意識なんて勝手なもので、平和の象徴であるハトとわかったとたんに嫌なイメージはどこかにすっ飛んでいる。例えば、あと2本ほど電線が通っていれば、丁度楽譜のようになるなんて、ディズニーだったと思うが、そんなアニメーションもあった。こんな光景を見ると、だれでも楽しい連想ができてしまう。
 しかし、このハトとても糞害に悩まされている神社や公園の話を聞く。その場にいる人にとっては、はなはだ迷惑な害鳥に違いない。大体、ハト=平和、カラス=不吉、ヘビ=怖いなどなど、そんなことを最初に言い出した人のイメージがそのまま固定して伝わっているだけで、事実を知らずに決め付けるのが偏見の始まりではないだろうか。
 たまにはひと休みして、ものの見方、考え方を変えてみよう。もしかしたら、妙な思い込みにはまっている自分に気付くかもしれない。

(2008/11/20)
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仲良し
 コーギー犬のコータロ君。
 前の通りを朝の散歩コースにしている人もいるので、ライバルが通り過ぎるたびに、彼はテリトリーを主張して威嚇の声を上げるのである。
 目の前を黒のラブラドールが曲がり角の向こうに姿を消すまで、ほとんど興奮状態。最後に一発ワンと叫ぶと、やれやれとばかりにいつもの居場所に戻ってきて、さあなでてくれと塀の隙間に鼻づらを出す。
 構い始めると、次のライバルがやって来るまで離れてくれないので、散歩どころではなくなってしまうのだ。だから、朝はいつも声の挨拶だけ。欲求不満で吠え出したら、手で伏せの合図をすると、ちゃんとじっとしているから、よくしつけられている。
 家の前の枯葉を掃いていたら、散歩から帰ってきたコータロがうれしさのあまりに飛びついてきて、エライ目に合った。連れていた奥さんは、私がコータロの大のお気に入りであることを知ってびっくりの様子だった。
 今日は仲良しのコータロ君を、「庭先の博物誌」のリストに加えることに決定。

(2008/11/19)
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続・天狗
 み、見つけたぞ、天狗・・・ではなくてヤツデ。高速道路沿いの民家の横に、大きな株を見つけた!
 ふーん。で、それが何だって言うの?
 え?いや、その、なかなか最近はヤツデのような、古い庭木が少なくなったなあと・・・。
 そりゃ、この前の記事で言ってたからわかっとるよ。で、このヤツデが何だっつーの。
 べ、別に、特にコメントはないですけど・・・。この前の写真よりこちらの方が良いかなーなんて、へへへ。ところで、あなたは一体どちらさまで?
 たわけもの!この大きな鼻が目に入らぬか!
 ひぇ〜!て、天狗さまぁ〜!・・・なーんてね。

(2008/11/18)
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珈琲牛乳
 例えば、紅葉と書けばそれはモミジやカエデのことを指し、葉が赤くなってもウルシやナナカマドなどを紅葉とは呼ばない。黄葉と書けばイチョウのことで、それ以外を黄葉とは書かない。
 もちろん、紅葉も黄葉も美しいことに異論をはさむつもりは毛頭ない。JRのコマーシャルに出てくる京都のモミジなど息を呑むような艶やかさだし、東京の外苑通りの並木道もまぶしいほどに黄色が踊る。ところが、どういうわけか、赤や黄色の錦絵より、こんな風に濃淡の違う茶色い枯葉が織り交ざっている木を眺めるのが楽しい。
 枯葉といえば秋のもの悲しさの象徴とされるから、楽しいなんて言うと変な顔をされてしまうかもしれない。でも、このスズカケの木を見上げていると、子供に戻ったような不思議な楽しさ?面白さ?を感じてしまうのは何故なんだろう?
 と、思いついたのは、コーヒー牛乳。コーヒーは大人の飲み物だったけれど、あの甘いコーヒー牛乳は子供が飲んでも良いものだった。特に風呂の後、それも今では珍しくなった銭湯で、湯上りの上気した体に冷たい奴を一気に飲むのが至福の時間だった。あのコーヒーの茶色とミルクの白とが混ざり合った色彩が、楽しい気分を運んでくるわけだ。さらには、ミルクティー、チョコレート、シュークリームやモンブランの記憶まで浮かんでくる。
 ポップな枯葉のイメージがあっても良いと思う。

(2008/11/17)
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水彩
 「水のいのち」という合唱の名曲がある。といっても、この曲について話すつもりではない。「水のいのち」という言葉がふと頭に浮かんで、つい一節を口ずさんでしまったのだ。
 今朝は道路が濡れていたので危ないかなと思いつつ家を出た。が、やっぱり5分と経たないうちに雨に降られてしまった。仕方なしに家路を戻る道すがらの1本のハナミズキ。おや、こんなに赤が鮮やかだったのかなと、立ち止まって眺めてみる。
 近寄ってみれば、当たり前なことだけれども、枯葉がしっとりと雨に濡れている。なるほど、昨日まではカサカサで目立たなかったのが、そのせいで色がくっきり浮き上がってきたのかも知れぬ。
 水のいのちを恵みに変えて、枯れ落ちる前の渇いた葉に、最後の化粧を施すようにして輝きを放たせる。葉先にたまる雨水が朝の明るさに光をもらいながら、ポタリポタリと滴っていく。水は天才芸術家。

 枯れる葉を水で彩る今朝の雨

(2008/11/16)
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飛空艇
 天気予報は午後から雲って夜遅くには雨も降り出すという。なるほど、昨日までの青空とは打って変わって、高積雲が空を覆い始めた。雲の切れ間の向こうに、いち早く朝日に輝く巻雲がゆっくり形を変えながら北の方角に流れているのが見える。
 上空2000〜4000メートルぐらいのところに漂う高積雲が、空全体を埋め尽くして高層雲に姿を変えると、間違いなく雨が近い。一方、巻雲はもっと上空の1万メートルぐらいのところに浮かぶ細かい氷の粒だ。晴れの象徴となる雲である。だから、この黒っぽく見える高積雲の上に出ると、カンカンの好天の下に真っ白い雲海が広がっているわけだ。丁度この空間の高さが飛行機の通り道なので、そういう景色は珍しくもなかろう。
 このような雲の切れ間に、くの字に並んで飛ぶ雁の群れを見たことがある。あまりに唐突だったので、カメラを取り出した時はとうに消え去った後だった。
 少し想像を膨らまして、例えば、宮崎駿さんのラピュタに出てくる飛空艇ゴリアテも、地上から見たら同じような感じなんだろうなと思わず笑いがこぼれる。私はそんな想像が楽しめる世代。
 例えば、母だったらどんな想像をするだろう。不気味な轟音を響かせながら、雲の切れ間に突然姿を現すB29の編隊。60年前、そんな光景が当たり前だった時期があった。同じ空を見上げながら、そんな情景を思い出してしまう世代。どんなに想像をたくましくしても、実際に経験をした者でなければわからない恐怖。老人をバカにしちゃいけない。我々には想像もつかないとんでもない経験をしているのだということを忘れてはいけない。
 と、いつの間にか巻雲は消え去り、少し雲間が広がったような気がした。朝の内は晴れるかもしれないな。

(2008/11/15)
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天狗
 近頃は庭を明るく華やかにする方が好まれるせいか、朝の散歩道も色とりどりの花や実を付ける外来の園芸種ばかりが目立つ。もちろんそれも楽しいのだけれど、古くから親しまれてきた日本固有の庭木が見られなくなったのは寂しい。
 ヤツデは、「天狗の羽団扇」の別名が示すように、光沢のある濃い深緑の葉が掌状に開いている、代表的な庭木のひとつだった。昔住んでいた戸塚の家の玄関前にも植えてあったのを覚えている。
 先週、近くの緑地公園の隅に生えているのを偶然見つけて、なにやら古い友人に出会ったようで、とても懐かしかった。以来、意識して庭に植わっているヤツデを探して歩くのだが、これが全く見当たらない。みなさんの近所ではどうだろうか。
 このヤツデはようやく今朝見つけた1本。残念ながら、通りからは垣根に隠れて上の方が少し見えるだけだったので、良い写真が撮れなかった。今が開花期で、球状の花房が天狗の羽織の総飾りみたいだ。花の少なくなった街角で虫たちに貴重な蜜を提供しているのだ。
 ここで、ヒューっと北風でも吹けば、すわ天狗様のご登場かとドラマチックな落ちになるわけだが、今日も昨日と同じ。穏やかな小春日和になりそうな朝だった。

(2008/11/14)
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体積
 久し振りに晴れた空が気持ち良い。
 今日は寒くなると思って1枚余計に羽織って出たのだが、いつもより早く汗ばんできた。かといって、上着を取れば蒸発熱を奪われて寒くなりそうなので我慢して歩く。
 甲高いヒヨの声を追って空を見上げれば、このあふれる青さ。丁度、高圧線が走っており、それに囲まれる空間に体積を感ずる。このなんとも説明のしようがない量感が額の辺りに迫ってきて、なんだかクラクラしてくる。
 それは決して嫌な感覚ではなく、体が宙に浮いているような不思議な気持ち。これと同じ感じは、山の尾根を歩く時にしばしば味わう。そういえば、意外なことに、東京競馬場のスタンドから広い馬場を見下ろした時も体積を感じた。
 と、意識を空に漂わせていたら、微かな風が汗に触れて、アスファルトの上に立っている現実に引き戻された。急に冷え込んできて、早く立ち去れと急かしているみたいだった。

(2008/11/13)
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朝顔その後
 野武士の一群は姿を消したが、朝顔のその後はこの通り。立冬も過ぎた朝の冷気の中に、この元気さは何だ!? 試しに手で触れてみたが、間違いなく生花だ。作り物ではない。一体いつまで咲いているつもりなんだろう。こうなったらクリスマス、いやお正月までがんばれと言いたくなる。
 例えば、小学校の理科の授業で、朝顔の咲くのはいつと聞かれて夏と答えなかったら、きっとその子はマルをもらえない。教科書どおりの答が出せなかったら、出来の悪い子にされてしまうのが学校教育。そういう教育を経てきた大人のほとんどがマニュアル人間になるのは当然の帰結か。
 書を捨てよ町に出よう、とは詩人寺山修二さんの言葉だった。今ならネットから離れよ町に出よう、と言うところか。我々は仮想現実で情報を得ているが、生きている世界は現実そのものである。生活は現実の中の工夫でやりくりされる。
 朝顔は冬でも咲いていることを知ったところで、何の役にも立たないだろうが、実際の世界は書物に書いてあることと違っているという事実から目を背けてはいけない。
 前にも話したが、冬に真夏の花が咲くというギャップを面白がりたいものだ。

(2008/11/11)
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野武士その後
 チカラシバが一面に生えていた原っぱだが、すっかりきれいに刈り取られていた。
 残念・・・とは思わない。ここにまた無粋なマンションでも建つなら話は別だが、また来年同じような光景が広がることを思えば、それがなにより楽しみになる。ドラマが一つ終わったんだなあという印象。面白い映画を見終わって映画館から出てきた感じに似ている。
 さあ、次のステージを見に行こう。次はどんな新しいドラマが展開するんだろう。

(2008/11/10)
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枯れ銀杏
 甘いヤマブドウがたわわに生っていた、と言えば信じる人もいるかもしれない。実はイチョウの実である。
 青い葉を茂らせていたイチョウ並木に少し黄色が混じってきた。梢のところどころに実の付いているのが見えるが、臭いはさほど気にならない。いつも下を歩いているので慣れてしまったのだろう。
 今日は少し違う道を歩いてみる。こうやって少しずつコースに変化を付けないと飽きてしまうのだ。いつもより長くイチョウの下を歩くと、急に臭いが強くなった。
 見れば、まだ落葉していない並木の中に明らかに様子の異なる株が1本。黄色く色付いているわけでもなく、小さくひしゃげたような葉が枝先にまばらに残っており、枯れ掛かっているのがひと目でわかる。イチョウというのは戦災でも生き残った生命力の強い木という印象がある。おやおやどうしたものかと見上げると、たわわという表現では物足りないほどの実が付いていた。
 木というものは自分の生命が尽きる前に、子孫を残すために異常な量の種子を残すという話がある。あの厄介なスギ花粉なども、きちんと森の手入れをしないために木が死に掛かっているせいだと聞いた。この木もきっと死期を悟って最後の力を振り絞って実を付けているのかもしれない。そう考えると、ごつごつした幹に手を触れずにはいられなかった。
 でも、ギンナンは高価だからみんな食べちゃうんだろうな。と冷めてしまえば浮世の勘定。秋深し、刹那の感傷に苦笑い。

(2008/11/04)
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野武士
 ついこの間までは普通のカヤの原だったのが、大きな黒い穂にあふれている。これはチカラシバ。
 黒い草の実など珍しくもないのだが、穂毛が黒を微妙に薄めて、ゆらゆら揺れながら一面に広がっている様は、なにか動物の体毛のような感触を思わせる。ふと手を伸ばして撫でてみたくなる。
 ノギクやコスモス、サクラやハナミズキの紅葉など秋の彩が楽しい散歩道で、黒という無彩色が視界に飛び込んでくる面白さ。例えるなら野武士が其処此処に円座を作って、戦いの時を待っているような風である。
 しばらく動かずに眺めていたら、スズメが数羽飛び出していった。こんなけばけばした実を餌に啄ばんでいたのだろうか?あるいは、野武士の叢が格好の隠れ家になっているのかもしれない。
 水筒の水を一口飲んで、その場を後にした。

(2008/11/03)
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