庭先の博物誌 | 画・文:平澤 功 おもしろがりホーム |
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百舌 | 081030 もず 081029 あさがお 081027 げんよう 081024 しずく 081021 ざくろ 081020 しおん 081019 うちゅう 081018 かふ 081016 つきのいり 081015 そぞろさむ 081010 あきのにおい |
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百舌だ。 空を見上げたら百舌がいた。 去年も見たのは今ごろだった。 同じように電線に止まっていた。 多分、百舌だと思う。 小さくてよくわからないけど、あれは百舌だ。 多分。 |
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おすすめの出し物 | ||||||||
(2008/10/30) | ||||||||
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朝顔:ヒルガオ科の蔓性一年草。中国から渡来し江戸期に園芸種が作られた。 |
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朝顔の紫がきれいだった。 霜月11月もすぐそこだというのに、こんなに一杯の朝顔の花を奇妙に感じる人も少なくなかろう。 奇妙に思うのは悪いことではない。普通、朝顔は夏の暑い時期に目にする花だし、入谷の朝顔市は毎年7月に開かれる。盛夏の象徴のような花と、冬の声も聞くこの時季に咲くことの間にギャップがある。このギャップを問題と言う。奇妙に思うというのは問題意識があるということだ。 朝顔は夏に咲くもので、この時季に咲く筈がないと頭から否定し、この写真はウソであると決め付けることも可能だ。しかし、残念ながら、この写真は今朝撮りたてのホヤホヤ。他人から教えられたこと、本に書かれたこと以外正しいと信じられないのが、いわゆるマニアル人間。 一方、この事実を素直に受け入れて、なぜだろうと思ったら、それが問題解決の始まり。 この場所の日当たりが良い?地球温暖化の影響?持ち主がわざと遅蒔きして育てている?単なる開花期のバラツキ?等々いろいろな可能性が考えられる。こういった可能性のひとつひとつが仮説。仮説が本当かどうかを確かめるのが検証。仮説と検証を繰り返して問題の謎を解き明かすのが科学。 そんなことを思いながら朝顔を眺めているのは楽しい。 しかし、朝顔が秋の七草にも数えられる秋の季語であると言うと、これまた驚く人が多いだろう。この朝顔はムクゲや桔梗のことだという説もあるが、実は昔の人は現代人よりもっと素直に事実を見ていたのかもしれない。 万葉集、山上憶良の二首。 秋の野に咲きたる花を指折りてかき数ふれば七種の花 芽子(はぎ)の花尾花葛花撫子の花おみなへし又藤袴朝顔の花 |
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(2008/10/29) | ||||||||
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眩耀 | ||||||||
どんよりと曇っていると、日の出が遅くなったような気がする。いや、とうに彼岸が過ぎて実際に日も短くなっているのだが、肌を突き刺す真冬の寒さでもなく、なにやら不思議な感じだ。 そんな暗い朝の坂道を下り、屋敷のような大きな家の角を曲がると、その土手一面に目が眩むようなツワブキの黄色が広がっていた。 春に葉柄の筋を取り除いて煮物にして食べると美味しい。あれがこんなに眩しい花を付けるのだ。夏山を歩く人は、マルバダケブキという花に出会ったことがあるだろう。フキの仲間はこんなふうに自己主張の強い黄色い花を付ける。光沢のある葉の色・形もよく似ている。 早春に顔を出すフキノトウも同じ仲間と思っていたら、どうもそうではないらしい。調べてみると、こちらは単にフキと呼ばれ、フキノトウ自体が細かい白花の固まりなのだそうだ。同じように大きくなった葉柄が食べられるが、ツワブキとは別属であると書かれてあった。 なーんていう話をしても、ほとんどの人は関心がないだろう。つまらない時代だ。 今世間の最大の関心事と言えば、経済、政局、日常生活。この薄暗い曇り空のように先行きがはっきりせず、野っ原の雑草をのんびり眺めているような気分になれないのも致し方あるまい。 ツワブキは冬の季語。本格的な冬がそこまで来ているということか。どうか、暗がりの中に明るく広がるこの花のように、世相にも光が射さないものだろうかと願うばかりだ。 |
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(2008/10/27) | ||||||||
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雫 | ||||||||
今朝は雨だ。 いつもならスズメやヒヨの声と共に東の空が白んでくる頃合いなのに、暗い雲が重たく垂れ込めて聞こえるのは軒を叩く雨の音ばかり。 雨の日はよっぽど気持ちが乗らないと、散歩に出る気がしない。雨の中の山歩きで風邪を引いてこじらせたことがあって、その悪いイメージがどうも躊躇させてしまう。 昔から晴耕雨読などとも言う。ムリをして出かけるより家でじっとしている方が賢いと言い訳をして、ゴミを出し新聞だけ取ってきたら再び布団の中にもぐる。が、一度体が外の冷たい空気にさらされてしまうと、なかなか二度寝ということができない。 仕方なく窓から外をボンヤリと眺めていると、物干し竿から雨のしずくがポタポタ滴っている。 上から伝ってくる水を吸い込んで、ひとつひとつのしずくが大きくなり、自分の重みに耐え切れなくなってポトリと落ちる。ある時はとなりの玉と合体して、その勢いで右に左に揺れる動きがまるで生きているように見えるから面白い。それを何度も何度も繰り返し、一度として同じパターンで動くことがない。ようやく朝の光があふれてくると、ガラス玉のようにキラキラ光って、何とも言えず幻想的だ。 いやいや、こんなつまらないことに見入ってしまうなんて、まだ目が覚めずに寝ぼけているに違いない。起きろ起きろ。そう自分に言って顔を洗いにいく平凡な今朝の情景。 |
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(2008/10/24) | ||||||||
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柘榴 | ||||||||
八百屋の店先に並んでいてもおかしくないくらいにきれいなザクロがなっていた。ちょっと目には赤く熟したリンゴのように見えるが、そんなにポピュラーな果物でもないので、食べたことがある人は意外に少ないのではないだろうか。 中を割ると赤い小さな種が詰まっていて、この粒々を食べる。甘いリンゴとは大違いでかなり酸味が勝っているが、ビタミンCがとても豊富だということも聞いたことがある。 ザクロといえば小さい頃に父から聞かされた鬼子母神の話を思い出す。当時住んでいた家から子供の足で小一時間のところに雑司が谷の鬼子母神があり、よく父の散歩にくっついていったものだ。 昔々、夜叉の娘が、自分の産んだ千人の子供にお乳を飲ませるために、他人の子供を奪って食べていた。これを見たお釈迦様が末の子を取り上げてしまったために、夜叉の娘は嘆き悲しみ許しを乞うた。そこでお釈迦様は、他人の子供を食べる代わりにこれを食べよと、血のような色のザクロを与えた。これ以後、夜叉の娘は仏法を護り、安産・育児の祈念をかなえる鬼子母神になったという話。 就学前の子供にはこの話の意味がよくわからず、鬼子母神の境内も木々がこんもりと薄暗い印象があったので、そこに人食いの鬼婆が住んでいるのではないかと怖がっていた思い出がある。 数年前にその辺を訪れる機会があり、久し振りに鬼子母神を歩いてみた。記憶より存外に明るくて鳩がやたらに多かった。周囲に古い軒が残っていた半面、近くにビルやマンションも目立つ街になり、これでは夜叉の娘もどこかに引っ越したかもしれないなと苦笑いだった。 |
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(2008/10/21) | ||||||||
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紫苑 | ||||||||
白い糸毛の小さい玉になって咲くハルジオンやヒメジョオンのことだと思っている人が多いが、秋の野に咲く白い野菊がシオンだ。 すっと立った茎からたくさん枝分かれした先に直径3〜4センチ程度の花が付く。 紫の苑と書いてシオンと読むので、母は紫がかったもの以外はシオンと認めない。散策の途中で見つけた真っ白な株をシオンだと指さしたら、これはただのノギクだと頑として譲らない。 秋の野菊は大別して黄色いノギクと白いシオンとに分かれ、さらにシオンはヨメナという種類に分かれるとされる。いずれにしても白い花弁は薄い紫を伴っていて、場所や環境により濃さがばらつくので、白いからシオンでないとは言えないようだ。が、漢字を知っている者からすれば、紫でない花をシオンと呼ぶわけにはいかないと言い張るのも尤もな話で、住宅地で文字通りのシオンに出会うのはなかなか容易ではないのである。 いつもとコースを変えて歩いていたら、高速道路沿いの坂道でシオンのかたまりに出会った。これなら母も納得するだろうとカメラに収めたものの、写真だと肉眼より白くなってしまう紫という色の難しさ。それでも帰宅してモニターを見せたら、珍しくシオンかもしれないと認めてくれた。 昔は田舎のあぜ道やら農道やらに沿って一面の薄紫になったもんだと言う。暮らしの中のごく当たり前だった光景を珍しいと感じさせる今という時代。温暖化云々で騒ぐ前に、失ってしまった身近な自然を知らないことも、今を生きる人の不幸の一つではないだろうか。 と、考えもしないこと自体が大きな不幸のように思える。 |
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(2008/10/20) | ||||||||
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宇宙 | ||||||||
和名は秋桜と呼ばれる。花弁の形が似ているからだと言われるが、実際はキク科独特の舌状花で、この説には首を傾げてしまう。種類が全く違うのにサクラの名をいただく芝桜や桜草などと同様、単に薄いピンクの花が目立つからではないかと思う。 コスモスという本名も、美しい星が並んでいるような花だからこの名が付いたと言うが、それもこじ付けっぽくてどうも気に入らない。 コスモスを宇宙と訳すけれども、星が浮かぶ宇宙空間を指す場合はスペースと言うことが多いし、もっと哲学的な意味が込められているのではないだろうか。実際、コスモスには調和とか秩序といった意味があり、その反意語はカオス(混沌)である。8枚の舌状花が黄色い花ずいを中心に放射状に並んだ姿は、幾何学的にもまさにバランスのとれた小宇宙ではないか。 などと思いをめぐらしてみたが、実のところはもっと身近で単純な由来なんだろう。ギリシア語では飾りの意味もあるそうだから、例えば若い娘が髪飾りにしていたことからそう名付けられただけなのかもしれない。 最近はあちこちに広いコスモス園ができて観光名所にもなっているが、道端や公園の片隅に小さくかたまって咲いているのが愛らしくて好きだ。 そう言えば、昔、近郊の山を歩いた時に、仲間の一人が上着のポケットに手を入れたり出したりしていたことがあった。聞けば、コスモスの種をまいているのだと言う。当時はエコロジーなんて風潮もなく、それは秋が楽しみだなどと笑ったものだが、今なら生態系が壊れるとしてひんしゅくものの行為だ。コスモスは生命力の強い花で、彼がまいた種は毎年ハイカーの目を楽しませていることだろう。さてさて喜んでよいものやら。 外来種のコスモスはこんな風にして日本全国に広がったに違いない。 |
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(2008/10/19) | ||||||||
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寡婦 | ||||||||
木や植込みのそばを歩いていると、微かな感触が顔に当たり、すぐにそれがクモの糸だとわかって手で振り払おうとするのだが、しつこくまとわり付いて閉口してしまう。 夏の頃はあんなに小さかった女郎グモが、この時季は鮮やかな色彩を誇らしげにして、大きな巣をあちこちに張り巡らせている。早朝のためうまく撮影ができなかったが、自分と同じくらいのカナブンにむしゃぶりついている姿に、思わず息を呑んだ。 巣をよく観察すると、少し離れたところに黒い小さな別のクモを見つけることができるだろう。これが女郎グモのオス。メスに精を提供するだけの役目しかないからだろうか、さながら栄養失調のやせ亭主といった風だ。その横でモリモリ食事に夢中になっているメスと並んでいる姿は、哀れというか情けないというか、メタボで大きな腹をもてあましている人間のオスとはだいぶ事情が違う。 他の個体も観察してみるといい。オスがいない巣も多いことに気付くだろう。すでにメスの餌食になってしまったのかもしれない。とはいえ、メスとても残り少ない命。寡婦となった女郎グモは蓄えた栄養を卵にして残し、やがて訪れる冬の寒さを知ることなく一生を終えるわけだ。 しかし、このようにして女郎グモという種は連綿と続いていく。人間は個々に意思を持って生きているが、彼らは種そのものが意思をつないでいるのかもしれない。そうだとしたら、それは一体どんな感覚なんだろう? |
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(2008/10/18) | ||||||||
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月の入り | ||||||||
今朝も放射冷却で寒い。 丹沢の向こうに顔を出している富士。つい先日までは黒い顔をしていたのが、今日は真っ白くなっていた 。 今年の初冠雪は、気象庁の観測では8月9日だったというが、実感の伴わない発表をされても何の感動もない。里で普通に暮らしている人間にとっては、今日が初冠雪日。深呼吸しながら、冬が近いんだなあという気持ちになってくる。 その目を少し北の方に向けると、朝日と対峙する満月が浮かんでいた。蕪村の句に「月は東に日は西に」とあるが、これは「月は西に日は東に」と、なんとも語呂が悪い。あるいは、日の出日の入りとは言うが、月の出月の入りとも聞いたことがないものだ。 それにしても、初白富士を遠巻きに眺めて大きな月が沈んでいく光景の見事さよ。 |
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(2008/10/16) | ||||||||
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そぞろ寒 | ||||||||
夕べ結構な量の雨が降ったようで、新聞を取りに表に出て向かいの家を見ると、道路の上にモクセイの花が落ちて、ポプリを撒き散らしたようになっていた。まるでオレンジ色の絨毯だ。 今日は空がすきっと晴れて、放射冷却のために寒い。昨日まであんなに出しゃばっていた甘い匂いがウソみたいに消え去って、それが妙に秋のもの悲しさをかもし出している。 天気予報では秋の長雨は終わったと言うから、いよいよ冬の気配が漂ってきたということか。そぞろ寒とは初秋の季語なので、多分、うそ寒とかやや寒と言うのが正しいのだろう。それでも、上着を着けなければ我慢できないほどの寒さでもない。そぞろ寒は思わず襟をかき合わせるような場合と歳時記にある。気分的にはそぞろ寒。 |
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(2008/10/15) | ||||||||
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秋の匂い | ||||||||
モクセイと言えば、かつては香りはすれども姿は見えないというミステリアスな花だった。子供の頃、甘いほのかな香りの元がどこなのか探しているうちに、道に迷ってしまった人の話を聞いたことがある。今ではどこの家にもこれとわかるくらいにポピュラーな庭木になってしまい、奥床しさが全然なくなってしまった。 ふいに強烈な刺激臭が鼻に飛び込んできた。そう言えば、イチョウ並木を歩いているのだった。年寄りのグループがポリ袋を片手に笑っている。臭いの正体を知れば、あの秋の味覚が思い出されて、少しも嫌な感じがしないのは面白い。 並木を抜けるともう臭いはなくなって、またぞろモクセイが勝ってくる。この甘い匂いも、辺り一面に出しゃばっていると、嫌みったらしく感じられてしまうのが残念。 実りの秋、食欲の秋、芸術の秋、色々と形容されるのが秋という季節だが、匂いが印象的なのも秋だなあと思うのだ。 |
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(2008/10/10) | ||||||||
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