午後の絵本 | どうしたら易しく面白くなるか もっと楽にならないか |
世界がたった100人の村だなんて | <午後の絵本> | ||||||||
幸福の村 喫煙者たち 世界が100人の村だなんて 鉄の猫 蠅 棄権者たち こっつんこ 雲の上の蜘蛛 北風と太陽と盗っ人 ぼくたちがそれに反対するわけ the Happiness Village ビリオンズ ひげじぃの365日 |
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世界がたった100人の村だなんて18 | |||||||||
世界がたった100人の村だなんて 〜 あとがき又は独りよがりの言い訳 | |||||||||
「世界がもし100人の村だったら」・・・かつて大ベストセラーになった本である。多くの人が感動したと絶賛し、メディアも世界の不幸な人々の存在を深刻に受け止めなければならないと声高に叫んでいた。今でも思い出したようにこの本を取り上げて特番を組むテレビ局が珍しくない。 かく言う私もこの本を否定するものではない。なかなか発想の面白い本だったというのが率直な感想である。しかし一方で、これは全面的に受け入れられるものではないと、読んでみてすぐに感じた。私のこのメッセージもすぐに書いてみたのだけれども、当時の熱狂的な雰囲気の中では、ただのへそ曲がりとしか見られそうになかったので、引き出しの奥にしまっておいたものだ。 まあ、今でも当時でも、市井の無名人が語ったところで、だれも気にすることはなかろう。仮に目に留まったとして、安易に同調して欲しくないし、また逆にヒステリックに批判されるのも真っ平だ。何が言いたいのかと言うと、要するに参考にするのは構わないけれども、他人の受け売りではなくて自分なりの意見をちゃんと持てということだ。 100人の村は一つのものの見方だ。そこから何を感じるかは、メディアや評論家の言うことをそのまま真に受けるのではなくて、自分で考えてみた方が良いよということなのだ。 メディアはこの本の題名をそのまま拝借して世界の貧困の映像を流し、視聴者の同情を煽る。視聴者は感動に浸って、こうした恵まれない人たちのために何かをしなければならないという意識に染まる。そのこと自体は別に悪くもない。何かなさればよろしい。だが、結局のところ、自分のあまりの無力さに何もできないまま、その内忘れてしまう。その忘れた頃にメディアはまた一発特集を組む。その繰り返しで、本質の問題は何も解決されていない。ただ、メディアとその関係者が金儲けするだけの話。 よく考えてごらん。そんなに金儲けして、それが救済に使われるなら、少しは貧困問題も和らいでいるのではないか。しかし、実際は、たとえ使われるとしても、本を出版したり番組を制作した経費をしっかり差し引いた残りの分でしかない。それは仕方がない話。出版や放送の関係者だって自分の生活がある。ごく一部の族を除けば、そんなに金が有り余っているほど裕福なわけではない。 そういう人間が貧困救済とか福祉とかの名の下に、わずかな金の奪い合いをしているのを、全くの別世界のこととして冷やかに眺めている族が一方にいる。彼らは、金をそんなものに使う気はさらさらない。ただ自らの享楽のため安全のため欲望のために使うだけだ。金を儲けることが目的にすらなっているので、あるときは法の目をかいくぐって不正をし、あるいは権力と結託して利益を貪る。彼らはメディアの特番なんて見ない。見る気もない。 そうなると、あの100人の村は何なのだ。無力の人間が、ただ愛せよと言われたところで、気休めにもならないではないか。われわれにこの世界を変えるためにできることとは何なのだ?そう言う話になると、新興宗教は大喜びで信仰を強要してくるし、共産主義者はクソ真面目な顔で支持を訴えてくるし、懐古的な国粋主義者たちは堅苦しいアナクロな価値観を振りかざしてくる。メディアは相変わらずのしたり顔で、お涙頂戴の特番を繰り返し、募金を集める。・・・どれも違っている気がする。 世界の人68億人を思いやることなんてできやしない。そんな力が自分のどこにある?それでも自分ができることは何だろう?68億は到底ムリだけれども、自分の目の届く範囲の人を思いやるくらいだったらどうだろう?少なくともそれくらいなら自分の努力でなんとかできるのではないか? 互いに同じであることを知って安心するのは簡単だ。あの100人の村は。6800万人を同質と仮定して1人にまとめてしまう。そこがなんともやりきれない。現実問題として、同じであることを必要以上に尊重すると、違いを否定しはじめる。そこから差別やいじめが始まり、果ては紛争や戦争に至る。否定とは思いやりの対極にあるものだ。思いやりは違いを認めるところから始めなければならない。自分だけが正しいと思ってはいけない。相手の意見に耳を傾けよ。と言って、それが意外に簡単でないことは社会生活を経験していれば誰にでもわかる。でも、そのくらいしかやれることがないなら、その努力をするしかないではないか。 人間同士、どうしても好きになれない奴、受け入れがたい輩もいる。それでも、互いに相手を理解し、互いに受け入れる努力をしなければ、68億の世界はいつまでたっても変わるまい。 例えば、ローマ法王だとか、マザーテレサだとか、ガンジーだとか、キング牧師だとか、世界には立派な人々がたーくさんいる。あるいは権威と言われる人がひとこと言えば、メディアはこぞって取り上げて大々的なキャンペーンに利用するだろう。でも、今風の言い方をすれば、うざい。 もう亡くなられたけれど、淀川長治さんという人がいた。そういう巨人・権威に比べたら、極東の小さな島国の取るに足らない一人の映画評論家でしかなかったけれども、それだからこそ私は淀長さんの言葉の方に本質的なものを感じる。 「私はねぇ、嫌な奴だと思ったら、その人がウンチをしているところを想像するんです。そうすると、どんな人でも好きになっちゃうんですよ。だから生まれてこの方、嫌いな人に会ったことがないんです。はい、サイナラ、サイナラ、サイナラ」
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